「いつか来た記者道」(83)-(露久保 孝一=産経)

◎もう一度野球を…シベリアから生還
 2025年は、第二次世界大戦終了から80年に当たる。戦前、戦中を通じてプロ野球選手として活躍した人たちは、ほとんどいなくなった。しかし、在りし日の輝かしいプレーの「記録と記憶」が消えることはない。そんな思いに駆られて、前回は「太平洋の島の英雄」として元高橋ユニオンズの相沢進投手を取り上げた。今回は、酷寒のシベリアから帰還した元阪神の外野手で、のちにセ・リーグの審判を務めた中田金一(なかだ・きんいち)の「困難を笑いで乗り越えた」不屈の人生を紹介したい。 
 中田は大阪府に生まれ高校卒業後、1939(昭和14)年タイガースに入団した。身長163センチの小柄な外野手で、40年は64試合に出場した。チーム内では、ちゃめけたっぷりのいたずら好きな行動で人気があった。ユーモアを交えた言葉や、仕草で人を笑わせ、何人かの選手は冷笑され、罠にはまったが、人柄の良さにみな許してしまったという。
▽阪神の中田が巨人・水原と同じ辛苦
 その中田が42年、召集令によりソ連との戦いに出兵した。当時、巨人の三塁手だった水原茂も同年に応召、アジア大陸戦線に従軍した。中田と水原は別の部隊だったが、45年に戦争が終わって帰国できるはずだった。ところが、2人ともシベリア抑留となる。スターリンの極秘命令で抑留された60万人の日本兵士と同じく、中田と水原も極寒の地で、栄養不足と重労働の日々を過ごした。
 中田は2年間のシベリア抑留のあと生還し、48年大阪タイガースに復帰した。しかし、戦争と捕虜での体力消耗が響いて活躍はできず50年オフ退団した。そのあと、セの審判員となり明るいジャッジをして試合を盛り上げた。水原は49年に帰国し、7月24日、後楽園球場で「水原茂、ただいま帰ってまいりました」と一声を発しスタンドから盛大な拍手を浴びた。しかし、中田同様、体力的なハンディを抱え、50年現役を引退した。
 プロ野球選手がバット、ボールを捨てて戦火をくぐりぬけ、親や妻子を思い、さらにはプロ野球復帰に胸を熱くして生き延びた。野球に復帰した喜びは、本人にしか感じえない感慨があったであろう。それだけに、元気であるという姿をファンに見せたかった。戦争のなかからでもプロ野球に輝きをもたらし野球人たちに対し、戦後80年の節目に改めて尊崇の念を抱いてファンは回顧しているはずである。(続)