「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(8)-(蛭間 豊章=報知)

◎突然のアメリカ出張 イチローの自主トレを取材
2001年正月休みをとっていた時期だった。運動一部(野球担当)の部長から「明後日からアメリカに行ってくれ」の緊急指令。それはポスティングシステムでマリナーズと3年契約を結んだイチロー選手のシアトルでの自主トレが急遽決まったためだった。現地時間1月9日、イチローさんがシアトル・タコマ国際空港(通称シータック空港)に到着するので、それを待ち受けるための1月8日成田出発だった。
休みのはずの7日はデパートで寒さ対策のためダウンを買い、会社に出向いて大リーグ関係資料などを用意。帰りは深夜送りのハイヤーだったが、その夜は関東地方に大雪が降り、ハイヤーのチェーンが切れて通常より大幅に遅れて帰宅した。翌朝は、私の車はスノータイヤを履いてないために、義姉が軽トラックで駅まで送ってくれたのだった。飛行機の欠航も覚悟したが千葉県などは雨模様だったようで、どうにか予定通り搭乗できた。
この年、イチローさんはご存じの通り首位打者、新人王、盗塁王も獲得してメジャーリーグに旋風を巻き起こすことになり、レギュラーシーズン中は共同通信の代表取材となるのだが、自主トレ時は取材記者は5、6社だったこともあり、セーフコ・フィールド(現T―モバイル・パーク)でのトレーニングを終えると約5分間ではあるが直接取材OKだった。
私は「昨日、カービー・パケットが殿堂入りしましたが」と右打ちと左打ちの違いはあるが、安打製造機で名外野手と共通項の多いスーパースターの殿堂入りの感想を聞くと、当時のイチローさんは、まだプレーしていないメジャーでそこまで余裕が無かったのだろう。「そうですか」と言ったのが忘れられない。
2月3、4日に当時セーフコ・フィールドの左翼後方にあったコンベンションセンターで行われたマリナーズのファンフェスタも取材。会場内ではイチローさんのオリックスでの勇姿がビデオで流され、シアトルのファンは日本から来たお目当ての新戦力に、およそ2000人がサインの列に並び約2時間イチローさんはペンを走らせ、要求されればツーショットの写真に応じる大サービス。トークショーでは「皆さんの声援にこたえ、この人気が冷めないような成績を残したい。自分の力を100%出すことを心掛けている」。
その言葉を守って、私もまさか米殿堂入りまでするとは思いも寄らなかったが、記念記録に到達する度に、何度も号外を出すことになるのだった。(次回は12月1日掲載予定)