「100年の道のり」(96)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎帰ることなかった沢村、景浦
あの男たちはセ、パ2リーグから発展していくプロ野球をどう見ていただろうか、天国から…。戦死した野球人をよそに多くの企業が球団経営に乗り出し、日増しに人気が高まったプロ野球だった。草創期を支えた巨人のエース沢村栄治と阪神のスラッガー景浦将は二度とボールを投げ、バットを振ることはなかった。
沢村は京都商のエースとして甲子園に出場。速球とドロップで注目を集めた。慶大進学をあきらめ巨人に入団。1934年(昭和9年)の日米野球でベーブ・ルースから三振を奪い、米国遠征でも活躍した。大リーガーから「スクールボーイ」と呼ばれた。ノーヒットノーラン3度という記録を作った大投手である。
太平洋戦争で兵役に。手榴弾を投げたことから肩を痛め、巨人を解雇。その後、3度目の出征となり、44年12月2日、台湾沖で潜水艦の攻撃を受けて戦死した。フィリピンに向かう輸送船に乗っていたのだった。
この沢村のライバルだったのが「豪将」景浦。松山商時代、甲子園大会で大活躍した。投打で春のセンバツで優勝、夏の選手権で準優勝と。立大でも打って投げて優勝に貢献した。36年2月に中退して阪神入り。契約金で実家の材木業を助けるためだった。
投げて勝率1位と防御率1位、打って首位打者と打点王。“二刀流の元祖”だった。45年5月20日、フィリピン戦線で死去。食糧調達に行ったまま戻らなかったという。
「東の沢村、西の景浦」として人気を集めた。のちの「東の長嶋(茂雄)、西の村山(実)」「東の王(貞治)、西の江夏(豊)」というライバル対決の原型だった。84年(昭和59年)のプロ野球50年のとき、この両雄が並んだ記念切手(額面60円)が発行されている。プロ野球の象徴だったことが分かる。
日米の戦いで戦死したプロ野球選手は76人。特攻隊員だった石丸進一(投手)もいた。彼らの名前が刻まれた“鎮魂の碑”が東京ドームの敷地内にある。その中で「野球殿堂入り」しているのは6名。沢村と景浦をはじめ内野手で韋駄天の田部武雄とファイター捕手の吉原正喜(以上巨人)巨人キラーだった投手の西村幸生(阪神)、タコ足の名手との異名を取った一塁手の中川美芳(黒鷲)。
みんなもう一度グラウンドに立ちたかっただろう。米国にはブラックソックス事件に絡んだとされるルースのライバルだったジョー・ジャクソンに思いをはせる映画「フィールド・オブ・ドリームス」があったが、日本にはそのようなものは見られない。沢村賞があるだけである。(続)
