「100年の道のり」(98)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎エース引き抜き、優勝への執念を示した三原
 巨人の戦後初優勝は1949年(昭和24年)で43年以来のことだった。その間、再建に取り組み、監督に招いたのは三原脩。兵役から戻ってから間もない47年に技術顧問を経て総監督となった。翌48年から監督として指揮を執った。
 目標はむろん「優勝」して「名門復活」。戦後のどさくさ時代に選手たちは行き場で苦労した。三原はそこを巧みに突き、阪急に行っていたホームラン王の青田昇を引き戻すなど戦力補強を必死に行った。その行動で“大殊勲”はライバル南海のエース別所毅彦を引き抜いたことである。
 別所は成績と年俸が不釣り合いだったことに不満を持っていた。「家を建てたい」希望も実現不可能な状態のとき、夫人の親類が東京で営業していた小料理屋に巨人のフロントが通っており、そこでの愚痴が別所獲得のきっかけとなった。
 48年12月、別所の巨人移籍が決まった。当時の契約の不備からの出来事なのだが、この年26勝を挙げて優勝に貢献したNO1投手が抜けるとあって、南海は怒りを爆発させるなど球界は大騒ぎとなった。巨人批判が渦巻いたものの三原巨人は遠慮しなかった。
 その結果が49年の優勝である。南海は4位に転落。エースの存在がいかに高かったかがはっきりとした一件だった。三原の優勝への執念が実ったのである。球史に残るこの“別所引き抜き事件”は、南海が自宅の面倒を多少でも協力しておけば、まずありえなかっただろう。
 ファンの騒ぎを鎮めるかのように連盟は巨人に対し「罰金10万円」「南海に移籍料21万円」の処分。別所には「出場停止2か月」のペナルティ。つまり“金銭で終結”となったわけで、巨人はセ・パ2リーグに入ると、別所を軸にした強力投手陣を形成し、日本シリーズで南海に3年連続し勝つ。これを巨人の「第2期黄金時代」と呼ぶ。(続)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です