「オリンピックと野球」(3)-(露久保孝一=産経)

◎戦後初の三冠王は王のはずだった

国際大会はやはり人気がある。1964年第1回東京オリンピックは日本全国で盛り上がった。プロ野球は巨人が低迷するなか、スーパースターが打ちまくり、オリンピックだけじゃないよ、という人気を集めた。

▽1試合4打席4本塁打

その男は、王貞治である。開幕戦での国鉄の大エース・金田正一からの場外ホームランに始まり、安打とホームランを量産し続けた。
 5月3日、後楽園球場(現在は東京ドーム)での阪神戦で、日本プロ野球史上初の1試合4打席連続本塁打という豪打アーチショーを披露した。プロ6年目、23歳。若きヒーローに、球場のファンは宝くじに当たったような歓喜に包まれ、翌日の新聞を見てみんなが「すごい、すごい」を連発した。
 この時点で、王は17号、打点39、打率4割5厘、2位を大きく引き離す「三冠」だった。王の打撃好調は続き、夏のお盆を迎えても「ワッショイ、ワッショイ」という祭囃子(まつりばやし)に乗るかのように長短打を連射した。
 8月21日の読売新聞は、こんな見出しをつけた。「王、三冠王へひた走り 強敵はやはり長島(現在は長嶋)」「1位大洋と3位巨人は7.5ゲーム差」(大洋は現DeNA)。マスコミも球界もファンも、王の三冠王獲得は間違いなしと見て、達成のその日を待った。

▽「三冠」目前にまさかの敵、厘差の闘いに

王は9月に入っても三冠へ突っ走る。9月6日の大洋戦ダブルヘッダーで52、53号を放ち、野村克也が持つ年間最多本塁打52を更新した。三冠王への問題は打率だった。
 「敵」は全国紙のいう長島茂雄ではなかった。中日の江藤慎一だった。「首位打者は絶対、俺がとる」と猛烈な闘志を燃やし、9月9日の巨人戦で高橋明から二塁打と本塁打を奪い、ついに打率首位を逆転した。
 その後は大接戦を演じ、王は最終戦までにあと2安打増やしておけば、江藤より1厘上回って首位打者になっていたはずだった。結局、江藤が3厘差上回る3割2分3厘で首位打者を奪取した。
王は本塁打を55号まで伸ばしてシーズンを終え、打点119とともにタイトルを取り、最優秀選手(MVP)に輝いた。
 王はなぜ、首位打者を江藤に明け渡したのか。本人は、「敗因」は明言しなかった。勝負師としてのマナーであろう。ネット裏では、「ホームラン王は首位打者には固執しないのだ」「王は流し打ちでもヒットは打てるが、それはプライドが許さなかった」「江藤の闘志がすさまじかった、そのやる気が江藤に味方した」という意見に分かれたという。
 王を良く知る記者からは「本塁打の日本記録を作って、それでよし、とし首位打者に色気を見せなかったのだ」との声も聞かれた。「真相」は謎である。翌65年、野村が戦後初の三冠王を手にした。(続)