「野球とともにスポーツの内と外」(32)-(佐藤 彰雄=スポーツニッポン)

◎広岡ヤクルトが残したもの
 2年連続最下位だったヤクルトを2021年シーズン、高津臣吾監督(53)が6年ぶりのリーグ優勝(20年ぶりに日本シリーズも制覇)に導いた日、スポニチ本紙が掲載した「ヤクルト年度別成績」を眺めながら一人、感慨にふけりました。
 1990年にヤクルト監督に就任した故・野村克也氏(2020年2月死去=享年84)は、同年のドラフト会議で亜大のサイドスロー投手・高津を3位指名。翌1991年から8年間、高津投手は“野村ID野球”を叩き込まれながら、抑え投手として日々、進化して行きます。
 2021年12月11日、神宮球場(東京・新宿区)で野村氏の「しのぶ会」が開催され、監督就任2年目でリーグ優勝、日本一の座も獲得した高津監督は、弔辞で成果を報告した後、力強く「私の役目は野村野球を継承すること、残すことです」と恩師に誓いました。
▽「野村ID野球」を継承する高津監督
 確かに弱小チームのヤクルトを、4度のリーグ優勝、うち3度の日本一に導いた野村氏の手腕、さらに後進の育成は、高く評価されてしかるべきものでしょう…が、私は野村氏が名声を高めれば高めるほどそれより以前、ヤクルトを率いた広岡達郎監督の苦闘を思い出してしまうのです。
 1976年のシーズン途中、荒川博監督が成績不振を理由に休養、ヘッドコーチを務めていた広岡が監督に就任します。同年リーグ5位。本格的広岡体制1年目の翌1977年、球団創設以来初の2位に躍進。機運が高まる1978年は“それ以上”を狙うシーズンとなり、実は私、同年のヤクルト担当記者を任命されたのです。
▽野村監督と広岡監督の違い
 ヤクルトは不思議なチームでした。オーナーの松園尚巳氏(当時=故人)は、リーグの盟主は巨人でいい、と公言。ヤクルトが強くなることを歓迎せず、全体に家庭的な雰囲気が漂っていました。一方、広岡監督は、巨人時代の同僚・森昌彦をヘッドコーチに招き、厳しい「管理野球」で現場の体制を強化します。フロントとの方針の違いは歴然-。
 その管理は、野手の基本的な捕球動作の徹底などはもちろん、正しい歩き方、さらには肉食を控える日ごろの食生活にも及び、私たち担当記者はそれらを「意識革命」と書き、その記者たちにも広岡監督は「キミたちは野球を知っているのかね」などと容赦のない言葉を投げかけたものでした。
 そうして広岡ヤクルトは同年、球団史上初のリーグ優勝を生み、圧倒的に不利と言われた阪急との日本シリーズにも勝ってしまいます。広岡監督が選手たちに植えつけた「意識革命」は「勝ち方」~どうしたら勝てるかについてを自分で考えること~であり、しかし、それはその後に継承されず、野村監督と比較するなら、残念なことですが、後進を育成できず、教え子を残せなかったことかもしれません。(了)