「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(1) 「その時を語る」-(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

エンゼルスの大谷翔平の二刀流の活躍、MVP受賞で盛り上がった2021年の大リーグ。試合は連日、NHK・BSで中継され、新聞、雑誌などにも大きく取り上げられた。今では日本人大リーガーは普通のことになっている。遡ること58年。日本人大リーガー第1号が村上雅則氏だ。1964年9月1日、サンフランシスコ・ジャイアンツの村上投手はメッツ戦でメジャーデビュー。そこから歴史がスタートしたのである。

【村上雅則略歴】1944年(昭和19年)、山梨県大月市に生まれる。1963年に法政二高から南海(現ソフトバンク)に入団。1964年3月にSFジャイアンツに野球留学。9月にメジャーに昇格。65年もプレー。大リーグ通算成績は54試合5勝1敗9セーブ奪三振100、防御率3・43。1966年から南海、日ハムなどでプレー。1982年に引退。プロ野球通算成績は566試合103勝82敗30セーブ奪三振758、防御率3・64。引退後は日ハム、ダイエー(現ソフトバンク)、西武で投手コーチを務める。

―最近の日本人大リーガーの活躍やメジャーリーグをどう見ていますか?
村 上「感慨深いものがありますね。私は1964年に3月に南海(現ソフトバンク)からサンフランシスコ・ジャイアンツの1Aのチームに野球留学。9月に2A、3Aを飛び越して、いきなりメジャーに昇格しました。今はアメリカの球団からスカウトされて、日本人選手が当然のように海を渡るようになった。その選手を取材するため、キャンプから日本の報道陣が押し掛ける。当時はもちろんテレビ中継もないし、担当記者もいないし、通訳もいない。今とはまったく状況が違いますね」
―もともと村上さんは大リーグへの憧れみたいのはあったのですか?
村 上「憧れもなにも、高校時代は日本のプロ野球が何球団あるのかさえ知らなかった。まして大リーグなどまったくわからない。球団名も選手名もです。あのベーブ・ルースの名前さえ知らなかったほどですよ(笑い)」
―野球留学のいきさつは後ほどうかがいとして、例えば言葉、英語を少しは勉強したのですか?
村 上「まったくやっていません。野球留学が決まってから本屋に行き、和英辞典と英和辞典を買って、アメリカに持っていきました。試合中もベンチに置き、肌身離さずに持ってましたね。1Aのチームにいたときチームメイトに、何しに来たんだ?、と聞かれた。“野球留学”なんて英語で言えないから“バケーション“と答えた。当時、日本で弘田三枝子の”バケーション”という歌が流行っていたので。全然、通じなかった。スペリングを覚えていたので、英和辞典を開いて見せたら”オー ヴェイケイション“。その程度です」
―年俸も何十億円も稼ぐ日本人大リーガーが珍しくなくなりましたね。
村 上「私が1965年にジャイアンツでプレーしたときの年俸が7500ドルでした。そのころは確か1ドルが360円でした(日本円に換算すると270万円)。ただ65年に私がメジャーに昇格したのは5月9日。年俸はその日からの日割り計算でもらった。その年、ジャイアンツはドジャースに次いでリーグ2位で、ナ・リーグからワールドシリーズの配当金が出た。本来は登録日数によって選手個々で配当金は違うのですが、貢献度を加味されたのか、4番のウイリー・メイズと同額(1856ドル30セント)をもらったのを覚えています。もちろん時代は違いますが、凄い金額をもらうようになったものです」
―当時はメジャーリーガーのステータスが今より高かったという話を聞きますが…。
村 上「その頃はまだア・リーグ、ナ・リーグで各10球団。選手も今より高いプライドを持っていた気がします。例えば服装ひとつとっても、外出する際はワイシャツにネクタイ、スーツが基本です。ヒゲは禁止、長髪や髪を染めた選手もいなかった。今は着る者もラフというか、自由だし、長髪やヒゲも珍しくない。メジャーに昇格したとき、マイナーで着ていた紺のアンダーシャツで試合前の練習をしていたら、フロントの人に、ここをどこだと思っているんだ!すぐに着替えろ!、と怒られた。アンダーシャツは黒がチームカラー。持ってなかったので、アンダーシャツをユニホームの袖に隠れる長さまでに切った。規則というか、マナーというか、そういう点でもいろいろと厳しかった」(続)