「100年の道のり」(48)日本プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎精神の叩き直し、それが茂林寺の猛練習だった
 巨人の茂林寺での練習(1936年7月)は、厳しく激しく、選手を育てたといわれている。実は、藤本監督と三原助監督の狙いは「精神面の鍛錬」だった。米国帰りを鼻にかけて真面目に取り組んでいないと判断しての取り組みである。
 ここで一人前になった象徴が白石だった。遊撃手に抜擢するのだが、元は一塁手だったからゴロを徹底的に捕らされた。いわゆる“千本ノック”である。
 「ある本数になると夢遊病者みたいになり、顔に当たっても痛みを感じなくなる。水を飲んでも吐き出してしまう。宿舎に戻る電車の中では吊革につかまる力がなく、床に座り込んでしまう。そんなきつさだった」
 こう述懐する白石がレギュラーバッティングで、投手の内角球を左こめかみに受け倒れた。これを目の当たりにした投手陣の目の色が変わった。
 「われわれも練習させてほしい」
 エースの沢村やスタルヒンらだった。藤本はそれまで主力選手には無関心を装い、やる気を出すのを待っていた。白石の闘志に刺激を受けたのだろう。
 館林の宿舎だった旅館に、旅役者らが泊まっていた。
 ある日、浪曲師の父親が年端もゆかない娘を、物干し場に連れて行き、竹刀でたたいていた。稽古の不満からだった。このシーンを藤本はミーティングで取り上げた。
 「あんな子供も真剣に練習している。君たちは野球でメシを食うのだろ。必死になって練習をし、プロ野球を盛り上げていかなくては、君たちの明日はない」
 呼応したのは沢村だった。
 「こんな練習は初めてだ。必ず勝つよう頑張る」
 藤本や三原の狙いは達することができた。選手の素質は、全国から選りすぐった者ばかりだから、真剣さえ取り戻せば自ずと強いチームになる。
 後日談がある。この練習が始まる前、藤本は東鉄時代の教え子だった選手に、意識的にしごくから我慢してついてきてくれ、と頼んでいる。巨人再建のために犠牲になってくれ、と頭を下げたのである。
 「どうしようもないチームが形になって化けた」
 三原の感想は、その後の巨人を見据えたものだった。殺風景な光景、デコボコのグラウンド…。巨人は立ち直った。(続)