「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(3)-(蛭間 豊章=報知)
◎スピードガンに熱中、江川記録の労作は幻に
プロ野球の球団担当経験がなかった私が1シーズンだけ現場に出たのは入社7年目、1979(昭和54)年でした。前年の暮れに当時の野球部長から「来年は記録を離れて、スピードガンによる瀬古正春さんのデータマンをやってくれ」と言われました。
スピードガンは元ヤクルトの荒川堯さんの会社サンヨージャイアントが米国から輸入。テレビやスカウトが使い始めたのがこの時期でした。スポーツ新聞では報知のほか日刊スポーツだけが購入して、スピードガンによる記事を高橋大陸さんというベテラン記者が担当していました。
報知は長嶋茂雄結婚のスクープで知られるOBで、新宮正春のペンネームで剣豪小説も書いていた瀬古さんに随時掲載という形でお願いし、私は瀬古さんが現場に来ない日も、プロ野球だけで無くアマチュア野球も機械をもってデータを集めました。
時は江川卓投手の空白の一日騒ぎで巨人入りしたシーズン。イースタン・リーグ、デビュー戦など何試合もスピードガンを構えました。当時の記憶では、彼と中日の小松辰雄投手が双璧。肩を痛めてなければ阪急の山口高志のスピードも測りたかったところでした。ちなみにその年の最速は日米野球で来日したジム・ビビーの151㌔、日本人では小松が最も速く149㌔。当時は130㌔台の投手が普通で140㌔超えると速球派でした。
また、打球速度も測りました。王貞治さんは130㌔台前半、ちなみに打球で最も速かったのは広島・山本浩二のセンター返しのシングルヒットの159㌔。現在の数値に比べ随分遅く感じますが、電波の跳ね返りの数値からスピードをはじき出すドップラー効果を利用して、米国のスピード違反のために作られたというスピードガン。真っ正面になればなるほど数値があがるものの、逆に角度がつけばつくほど誤差が出ます。そのために打球速度は両翼に行くのが主だったために、MLBのスタットキャストで頻繁に出てくる数値より大幅に遅いのです。
この年は夏の甲子園、箕島・星陵戦の延長18回試合、広島・近鉄の日本シリーズ最終戦の「江夏(豊)の21球」も現場にいて原稿を書かせてもらいました。
最後にこの年の冬、江川投手の正式な巨人入りの際に使うため、作新学院時代の破天荒な詳細成績を、栃木県の下野新聞の紙面のバックナンバーとスクラップブックを見せていただきました。それを書き写して体裁を整え、法大時代の成績と合わせて約9段分(当時の紙面は15段)の表を2月1日付けの3面で飾る準備を整えました。その労作は、1月31日遅くトレードの交換相手が小林繁投手と判明し、紙面が大幅差し替えで幻になりました。
ところが翌月、野球漫画雑誌に赤字まで同じという形で掲載されたのです。驚いて抗議したのですが、翌月号の欄外で簡単なお詫びが出ただけでした。野球の記録は誰がやっても結果は同じになるのですが、仁義として体裁を変えるのが通例。それもせずに、アルバイト原稿で某紙の記録記者が掲載したのでしょう。(次回は8月に掲載)