「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(4)-(蛭間 豊章=報知)
◎スクラップブックに集中し綿密な記録を
1973(昭和48)年に報知新聞社に入社。けっして高い給料ではなかったが、文房具だけは使い放題だったのはうれしかった。特にスクラップブック。仕事であるプロ野球記録だけではなく、アマチュア(特に春夏の甲子園)、そしてメジャーリーグと分けて仕事の合間に当時の手が汚れる糊を使って記事を貼っていた。上司の宇佐美徹也さんが入社直後にくれたメジャー本セットの一つ、72年版のレコードブックは、毎日少しずつ読むのが面白かった。
記録担当ながら日米野球の取材の手伝いもした。74年のメッツ戦では、甲子園で全日本戦を見て、後楽園球場で行われた王貞治、ハンク・アーロンのホームラン競争では、メッツナインと同じように三塁側ファウルエリアの芝生の上で見守った思い出がある。
そんなメジャー好きが26球団(当時)の成績を付けるようになったきっかけは、78年シンシナティ・レッズの来日。報知では開幕から毎週1度、レッズの1週間の成績を作ることが決まった。しかしメジャー成績をレッズだけ付けるのはもったいないと思った。当時あったAPのラインスコアのテレタイプを保存してもらった。この年はフジテレビがメジャー中継をスタートさせた年でもあり、ベースボールマガジン社が展望号を始め、メジャー本を次々に出版したシーズンでもあった。
もう一つ始めたのが、2週間遅れくらいで到着する週刊紙スポーティングニューズ。これには全試合ボックスコアとともに試合経過も数行だけ書かれていたことで、リーグ別にスクラップブックを作成した。同紙は珍記録なども掲載、たとえば1つの打球で3失策したトミー・ジョン投手、打球が鳥に当たりそれを外野手にキャッチされてアウトになった(当時のNPBの規則では当たった瞬間ボールデッド)リッキー・ヘンダーソンなど、日本のスポーツ紙では掲載されない珍プレー、珍記録が私のノートをぶ厚くしていった。
それまでメジャーの原稿を書くことはなかったが、90年に馬立勝さんがコミッショナー事務局に移ったことで、紙面のメジャー原稿を記録の仕事と並行してやるようになり、日米野球にも取材記者と一緒に担当することになった。毎日、NPBとメジャーの記録を5時間くらいかけて整理してから出社した。それが一転したのが野茂英雄のドジャース入りだった。(次回は12月に掲載)