第80回 最終回「想い出のサンフランシスコ」(島田 健=日本経済)
◎トニー・ベネットの代表曲
▽元は女性の持ち唄
このコラムは第1回のホームランブギ(笠置シズ子) 以来、日本と野球の発祥国、米国の曲を交互に79回を重ねてきた.しかし米国の唄でタネが尽きた。80回目を誰でも知っているトニー・ベネットの代表曲で最終回とした。
「ザ モーニング フォッグ チル ジ エアー」という歌詞から「霧のサンフランシスコ」とも日本では言われているこの曲は、実はクララメイ・ターナーという女性オペラ歌手の持ち歌だった。
53(昭和28)年に誕生したが、彼女はコンサートでは唄うが、録音はしなかった。そこでベネットの伴奏者であり作詞、作曲した二人の友だちだったラルフ・シャロンの登場となる。
▽市長の前で披露
シャロンの紹介を受けて61年12月、サンフランシスコのフェアモントホテルの有名なナイトクラブ、ベネチアンルームで、ベネットは初めてこの曲を唄ったが、同クラブの聴衆には当時、ジョージ・クリストファー市長と後の市長となるジョセフ・アリオートがいた。
ベネットの声とサンフランシスコを美しく描いた歌詞の内容とともに、この感銘的な唄が、市の公式賛歌になったのも納得できるエピソードである。23年に96歳で亡くなったベネットは「この曲のおかげで私は世界市民になれたし、生きて行くことができたのだ」と感謝したことがある。
▽野球はジャイアンツ
市の賛歌ともなれば、87年5月のゴールデンゲートブリッジの開通50周年式典など、さまざまなシーンに流されて来た。野球はもちろんジャイアンツだ。本拠地球場(24年現在はオラクル)での勝利の後、ウインソングとして放送されて来た(現在はアップテンポなものと交代)。12年のワールドシリーズ制覇の時は、市庁舎前のパレードで演奏された。
サンフランシスコといえば、ベネットの「想い出のサンフランシスコ」、ニューヨークといえばフランク・シナトラの「ニューヨーク ニューヨーク」と定番ソングがあるのに、東京で思い浮かばないのは寂しい。
▽ゲイの唄?
作詞ジョー・コーリー、作曲ダグラス・クロス。二人とも西海岸出身でニューヨークに進出した後、ふるさとを思い起こして曲を作った訳だが、ゲイカップルだったともいわれている。ヴァース(サビに入る導入部分)の最初に、「パリの美しさはどこか悲しくてゲイっぽい」とある。二人は第2次世界大戦で知り合ったそうだ。ご愛読ありがとうございました。
検索は「Tony Bennett I left my heart in San Francisco」(了)