「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(5)-(蛭間 豊章=報知)

◎初のメジャー観戦は野茂が投げ没収試合に!

 近鉄・野茂英雄のドジャース入りは私の記者生活を大きく変える出来事となった。

1995年3月、野茂が合流したベロビーチ・キャンプに、記録担当の私が選ばれ取材で向かった。初の海外出張だったが、大して英語もしゃべれない41歳は各社の野茂番記者で最年長だった。

当時、スポーツマスコミはいずれも野茂に対して批判的。そのため、4日に1度の会見はけんか腰だったのを覚えている。

当時は選手会の長期ストライキもあってマイナーの選手ばかり。その中で毎朝、誰もいないグラウンドをランニングする野茂の姿が印象的だった。野茂がブルペン投球や会見をしないときには、他の球団のキャンプ地に行く楽しい日もあった。私は公式戦初登板までいるつもりだったが、日本プロ野球が始まっておりオープン戦初登板だけを見て帰国した。

 オープン戦で好投した野茂はメジャー昇格を決めた。レギュラーシーズンが始まると、登板のたびにスコアをつけ、通信員からの原稿の受けをこなした。2度目の取材は8月で野茂フィーバーのまっただ中。登板するたびにメーン記事+つきものが要求された。

ドジャースタジアムで野茂の登板を初めて見たのは10日のカージナルス戦。当日は「ボールナイト」として、超満員5万3361人の来場者全員に硬球ボールがプレゼントされた。

 野茂の2失点の好投も打線が1点に抑えられていた八回裏、ド軍主砲キャロスが2ストライク後の外角スライダーを見逃したが、クイック球審のコールはストライク。これに端を発して、厳しい判定をめぐりキャロス、モンデシー、そしてラソーダ監督までもが退場となった。

激怒した数人のファンがボールを投げ込んだ。ラソーダ監督が「もっと投げろ」と催促のポーズをしたからたまらない。数千個が審判団や相手カージナルスの選手を目がけて投げ込まれた。

騒動は止まず、審判団は没収試合を宣告。試合後のネット裏には審判室に記者が殺到し、大混乱の中での取材となった。野茂は「あんな形で終わったことより、本塁打2本打たれたことを反省。負けたから今日は0点です」と神妙だった。

フィラデルフィアで帰国の挨拶に行くと「ご苦労様でした」と丁寧に応えてくれた野茂の言葉がうれしかった。(次回は2025年2月に掲載)

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