「インタビュー」柴田 勲(6)-(聞き手・露久保 孝一=産経)
◎日本のモーリー・ウィルスになれ、と川上命令
―柴田さんはプロ2年目から、もう巨人のレギュラーになった。ス一ヒッターになって大活躍するのですが、それはどんなきっかけから?
柴 田「2年目のその年、広島戦でホームランを打ったあと、川上監督から呼ばれた。『お前は、日本のモーリー・ウィルスになれ』と告げられた。モーリー・ウイルスって、誰? その時、僕にはどんな人物なのかわからなかった。川上さんもよく知らなかった(笑)。知らない人のようになれっと言われてもね。でも、その男になれというんだから、もう…」
―でも、川上さんにしてみれば、柴田さんに対する期待があったからそう言ったわけですよね。なぜ、モーリー・ウィルスだったのか。
柴 田「川上さんは、よく知らないがと言いながら、彼はスイッチヒッターで盗塁のうまいメジャーリーガーだと。ああ、そうですか。それなら、やります、と僕の頭にスイッチヒッターの言葉が刻まれた。新しい火がついたような感じがした」
<モーリー・ウィルスはドジャースの遊撃を守り、盗塁のスペシャリストして大活躍した。1962年に104盗塁を成功させMVPに輝く。60年から6年連続ナ・リーグの盗塁王、通算586盗塁を記録した>
―スイッチヒッターになって、「1番センター・柴田」はテレビでも大変な人気になった。
柴 田「自分でも思う存分、働いた実感はあった。しかし、苦労した2年間があった。高田繁が入団して、川上さんは高田と土井正三で1,2番を組ませることを考えた。柴田は右打ちだけで長打力を生かして(打順)5番を打ってくれ、といわれたんです」
―スイッチヒッターをやめて、右打ちだけでいけと…。
柴 田「川上さんのいうことをまともに聞いちゃった。それで、右打ちだけで2年間やった。スイッチヒッターをやめて、この2年間はあまりぱっとしなかった。長嶋さんが3番、僕が4番、王さんが5番の時もあった。試合では江夏豊から2ランホームランを放って、最高の気分だったね。全盛期のONを差し置いて4番だからね。これは僕だけだった。でも4番は1回だけだった。僕はまたスイッチヒッターに戻って、打って走れる状態になった。せっかく、モーリー・ウィルスになれと言われたんだから、その気持ちはずっと残っていた」
<5連覇目の巨人は1969(昭和44)年7月3日、甲子園の阪神戦で柴田を4番打者にすえた。巨人は4―1で勝ち、川上監督は帰りのバスの中で「柴田、よくやった!」と笑みを浮かべて握手した>
―柴田さんは通算579盗塁を達成した。モーリー・ウィルスは586だから、ほぼ同じですね。
柴 田「モーリー・ウイルスは89歳で亡くなられた(2022年9月)。僕は、のちに偉大なるプレーヤーとわかったけど、最初はまったく知らないこの人をめざして、スイッチヒッターとして第一線でプレー出来た。世にも不思議な物語ですよね」(続)