「100年の道のり」(84)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎映画の永田、執念の登場

「プロ野球の経営をしてみたらどうかね」

GHQのホイットニー少将からの声掛けから、大映映画のトップ永田雅一はプロ野球の世界に飛び込んだ。1947年(昭和22年)のことで、永田が追放者の面倒を見ているのではないか、との疑いで呼び出されたのである。

疑惑が晴れたところで野球談議になった。GHQは日本再建の重要政策の一つとして野球を考えていたというときだった。

中日ドラゴンズを出た一団の選手を預かった永田は、新チームを持って連盟に加入を働きかけた。連盟の回答は、8球団に1球団増えると日程に不備が出る、との理由で拒否。永田はそれでも「大映」というチームを作ってあちこちで試合を行った。

そんなドサ周り中に、ある情報を永田はつかんだ。東急フライヤーズが資金繰りに苦しんでいる、と。永田は即座に東急幹部に会い、買収を取り付けた。48年、大映と東急を合体した急映フライヤーズとしてリーグ戦を戦った。永田がプロ野球に足を踏み入れた瞬間である。連盟に参画拒否を挽回した執念が実ったのだった。

このオフ、東急が撤退し、永田は改めて「大映スターズ」を創立し、49年から単独チームとしてリーグ戦に参加した。

永田は京都出身で、小柄だが度胸があった。ちょび髭をはやし、体にそぐわない野太い声でしゃべりまくった。話は巧みで、名調子だったが、その内容はでっかく、いつしか“永田ラッパ”と呼ばれるようになった。

当時の大映映画は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「銭形平次」などで有名な長谷川一夫をはじめ、銀幕のスターを抱え、映画界の寵児として君臨した。敵なし、ラッパを吹きっぱなし。メディアにとって永田は大スターといってよかった。

あるとき永田は米国に行った。

映画会社の社長として胸を張っていたが、現地での扱いはほぼ無視の状態だった。ところがプロ野球の球団オーナーとなると扱いが一転、大いに関心が集まった。これに永田は素早く反応し、サンフランシスコ・ジャイアンツのストーンハム会長と縁を結んだ。

永田はのちに東京の下町に球場を造った。そのモデルがジャイアンツの本拠、キャンドルスティック・スタジアムで「東京スタジアム」と命名した。巨人と日本シリーズを戦ったことがあった。

球史のなかで永田は名物オーナーとして人気を集め、その行動力で数々のエピソードを残している。(続)