「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(7)-(蛭間 豊章=報知)
◎テッド・ウィリアムズをパンチョさんと外野席で見守った日
1999(平成11)年から私の社内勤務は、記録を離れてメジャーリーグ専属のデスクになった。8月に部長から「今度、紙面に毎日40行前後のコラムを書くことを条件にメジャー取材に行かないか」と言われた。まさかのオファーに断る理由もない。チャンピオンシップシリーズから参戦しワールドシリーズの翌日に帰国というスケジュール。吉井理人投手が在籍していたメッツ・ブレーブス戦がスタートだった。
初めてのポストシーズン取材に胸躍らせてブレーブスの本拠アトランタに入った。ナ・リーグ優勝決定シリーズはブレーブスとメッツとなり、シーズン中から遺恨のある対決だった。ブレーブス3勝1敗で迎えた第5戦にドラマが起こった。吉井投手が4回途中で降板した試合はもつれ延長十五回にブレーブスが1点勝ち越した。その裏、同点においついたメッツは一死満塁でベンチュラの打球が右中間フェンスを越えた。ところが一塁走者のプラットはヒーロー、ベンチュラに抱きついてきた。ベンチュラが走者を追い抜いたかたちになり満塁サヨナラ本塁打がサヨナラ単打になる史上初の珍事。スコアボードには最初は5点、次に3点、最後に2点と変わり、5時間46分の長い試合は記録員も慌てさせた劇的試合となった。
第6戦は地元に帰ったブレーブスが延長十一回押し出し四球でサヨナラ勝ち。ア・リーグのヤンキースと3年ぶりのワールドシリーズになったが、ヤンキースが4連勝を飾った。この第2戦の試合前に20世紀のオールスターチームを選出する「センチュリーチーム」が発表された。ここで車いすのテッド・ウィリアムズを見た感動は忘れない。左翼外野席の臨時記者席で、隣り合わせたパンチョ伊東さんと目を赤くしながら拍手した。
昼間にはデパートでチームに選出されたOBが会見を行い、私はスタン・ミュージアル、サンディ・コーファックスに片言英語で質問したのもいい思い出となった。帰りの航空券は第7戦終了後だったことで、第4戦後の優勝パレードの原稿を書いてお役御免。残りの2日間はニューヨークから朝7時発、1日1本だけという郊外のクーパーズタウンまで路線バスで5時間かけ向かった。憧れの米野球殿堂は会員だったこともあって資料室に通されて、ベーブ・ルースの1920年ヤンキース移籍シーズンの成績の集計カードをコピーしてもらうなど、最高に充実した出張だった。(次回は8月1日掲載予定)