「記録の交差点」(24)-(山田 收=報知)

第24回 宮西尚生⑥
 昭和時代の大御所たちの登板に関する話題を、と前回予告したが、本題に入る前に、このシリーズの主人公・宮西がNPB新記録を達成したことを報告したい。
 2025年5月15日、日本ハム・オリックス戦。両軍無得点の7回2死満塁で今季11度目のマウンドへ。見事にピンチを切り抜け、2年ぶりの勝利も手にした。一つの目標だった岩瀬仁紀の879連続救援登板を超えるメモリアルデーだった。
 報道によると、宮西が2度目の最優秀中継ぎ投手賞を受賞した2018年オフのある表彰式で、その年限りで現役引退した岩瀬仁紀から、「俺の記録を抜かせよ」と声をかけられたという。「その時の言葉が印象的で、辛い時でも岩瀬さんの数字があるから頑張れた」と振り返っている。ここまで882連続救援登板、ダントツのホールドも419を積み重ねている。このあとは、本人が次の目標としている岩瀬の持つNPB記録、1002登板という頂にチャレンジするのみだ。
 さて、今回取り上げる登板数。岩瀬以前の最多記録949を保持していたのが米田哲也。
1956年~77年の実働22年で、先発がNPB最多の626(パで605、セで21)、リリーフ323。通算350勝は前回紹介した金田正一の400勝に次ぐ2位。今の感覚でいえば、投げまくって、勝ちまくった投手だ。
 岩瀬の場合、先発1試合を除く1001試合はすべて救援登板だ。ワンポイントも含め、リリーフ専任投手が生まれ、投手陣を動かすシステムの違いが生じた今、新旧の記録の比較はしづらい。岩瀬の記録は、短いイニングのリリーフ投手だからこそ成し遂げた数字ともいえるが、一方でそれを続ける困難さもある。とはいえ、昭和時代のボリューム感は凄まじい。
 米田は梶本隆夫とともに阪急を支え、その後、阪神、近鉄と渡り歩いた鉄人右腕。1977年7月31日、近鉄・クラウンライター戦で、リリーフ登板。従来の記録、金田の944を超える945のNPB新を打ち立てた。晩年の記録達成だから仕方のないところだが、実はタイも新記録も敗戦処理だったという。
 但し、5130イニングも投げ続けたことは、現代の視点からいえば、驚き以外の何物でもない。これもまた、実働20年で5526回2/3を残した金田に次ぐ2位である。五輪などで話題になる❝シルバーコレクター❞の名称がピッタリくるのが、米田哲也という投手である。
 NPBの投手通算記録を眺めてみた。前述した勝利・投球回以外でも、奪三振(3388)、
シーズン20勝以上(8度)、敗戦(285)に加えて、投手としての本塁打数(33)…などすべて金田に次ぐ2位。もちろん前述の通算先発626、失点1940、自責点1659、与敬遠120、被安打4561はNPB最多記録である。
 金田正一という日本球界最高の投手を常に追いかける存在であったことは間違いないが
当人は晩年「1000登板を狙いたい」と密かな野望を口にしていたそうである。
 次回は球史を飾ったもう1人のとてつもない怪物投手に焦点を当てようと思う。=記録は2025年5月26日時点=(続)

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