「いつか来た記者道」(18)-(露久保孝一=産経)
◎ライオンは弱かったが、打率10割打者を生んだ
ライオン対ジャイアンツの戦い、といえば、それはライオンズ対ジャイアンツの間違いじゃないのか? という声が出そうだ。しかし、ライオンは本当に存在したチーム名である。
90年前の話であるが…。そのチームに、通算打率10割という記録をつくった選手がいた。まさか、それはウソだろう、といわれそうだが、事実である。当時を知る老野球ファンから、ライオンにまつわる「面白い話」を聞いた。その怪談を、順を追って進めたい。
1939年(昭和14)8月7日、ライオン軍というチームが、西宮球場でジャイアンツ(巨人)と対戦した。巨人は水原茂、千葉茂、中島治康に加え、この年、19歳で首位打者になった川上哲治ら傑物揃いだった。
試合は巨人のリードで進み、4回、ライオン軍は先頭打者の高田勝生(たかだ・かつお)が二遊間をゴロで抜くヒットを放った。監督兼任の高田は次の回、一塁を岡本利之と代わりベンチに下がった。
この日、高田は1打数1安打だった。39年の高田は、この試合のみの出場。翌年は1試合出場したが、打席には立たず、プロ通算1打数1安打、生涯打率10割という記録を残したのである。
▽最高打率10割の高田の名は消えてしまう
1打席のみでも「通算打率10割」には変わらないのだ。しかし、プロ野球でこの高田の記録は、なぜか隠れた記録になっている。
「打率10割の選手は2人いる」と語り継がれているが、それには高田は入っていない。私のコラムを読んで、プロ野球記録関係者の認識は変わるかもしれない…?
高田以外の2人とは、塩瀬盛道(東急フライヤーズ、故人)とシュルジー(オリックス)である。2人とも投手ながら、1950年に塩瀬、91年にシュルジーが選手生活でたった1度だけの打席でホームランを放った。初打席初本塁打という、まさに「めでたい偉業」の「怪記録」が投手によって生涯打率10割、長打率40割として残っているのである。
さて、最初に話したライオン軍のことである。日本に本格的なプロ野球チームが誕生したのは、1934年(昭和9)の「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍の前身)が最初だった。
その2年後には7球団によって日本職業野球連盟が設立され、その中に「大東京」があった。大東京は経営難から翌37年にスポンサーとのタイアップを考え「ライオン歯磨本舗」の名前で知られた小林商店(現ライオン)と提携してライオン軍となる。監督は、胴上げ第一号となった小西得郎である(「いつか来た記者道」の第4四回目で書いている)。
▽ライオンは強いが、ライオン軍は弱かった
ライオン広報誌によれば、大東京軍を強そうな名称にしよう、大坂タイガースに対抗してライオンならいける、となってライオン軍が生まれたようだ。しかし、このライオンは強くなく、下位を低迷した。
太平洋戦争が始まり英語が使えなくなったことから、ライオン軍は41年に「朝日軍」と変わった。その後、何度か合併などでチーム名を変え、今日の横浜DeNAに至っている。
かつてのライオン軍はからきし弱かったが、現在のライオンズはすこぶる強い。阪神タイガースも甦りつつあり、2020年はライオンズ対タイガースのシリーズ激突となれば、名前を聞くだけでもぞくぞくしそうだ。(続)