「オリンピックと野球」(9)-(露久保孝一=産経)

◎五輪開幕直前に日本人初の大リーガー誕生

 第1回東京オリンピック開幕を12日後に控えた1964(昭和39)年9月29日、アメリカから「日本人大快挙」のニュースが飛び込んできた。村上雅則が、大リーグで日本人として初めての勝利を挙げたのだ。
 当時、大リーグと日本野球は「プロとアマチュア」の実力の差があった。五輪の喧噪のなかで、村上の記事は大きくなかったが、野球ファンからは「信じられない」という驚嘆ととともに称賛の声があがった。
 村上は、高橋博、田中達彦とともに、64年春、南海(現福岡ソフトバンク)の鶴岡一人監督からアメリカ野球留学のために送り込まれた。3人はマイナー・リーグのA級に所属し、村上は紅白戦とオープン戦で好投した。シーズンが始まると、高橋、田中はルーキー・リーグに落とされたが、村上だけA級に残った。

▽1Aからメジャーに昇格したマッシー村上

 
 村上はフレズノ・ジャイアンツで、左腕からの制球力と相手打者を惑わす変幻投法でリリーフとして49試合に登板し、11勝7敗、防御率1.78という成績を挙げた。
 A級の試合日程が8月31日で終了するのと同時に、村上にジャイアンツのアルビン・ダーク監督から「至急、メジャーに合流せよ」との連絡が入った。村上は、なんと2A、3Aを飛ばしてメジャーリーグ昇格を果した。
 9月1日、日本人初の大リーガーになった村上は同日、ニューヨーク・メッツ戦でリリーフし、1回を無失点に抑えた。
 同月29日のヒューストン・コルト45’s(現アストロズ)戦では、九回同点の場面で登板し、延長11回までを無失点に抑え勝ち投手になる。「アジア人初の大リーグ勝利投手第1号」となった。
 突如現れた日本人ストッパーに、マスコミは「マッシー」と名付け話題を呼んだ。この年は9試合に登板し、1勝1セーブ、防御率1.80という好成績を残す。
 翌65年は、南海とジャイアンツの間に二重契約問題が発生したが、村上はジャイアンツに所属してリリーフで力を発揮、45試合に登板し4勝1敗8セーブ、防御率3.75をマークした。
 日米が戦った第2次世界大戦の8月15日の終戦記念日には「村上デー」として、ただ一度の先発投手の名誉も与えられた。
 村上は、法政二高時代は1年先輩の夏春甲子園連覇の柴田勲の控え投手で、甲子園では1イニング登板しただけだった。無名選手ながら、鶴岡監督の目にとまり62年9月南海と入団契約した。
 64年に、米野球留学したのをきっかけに飛び級で大リーグ昇格し、2年間投げた。南海に復帰してからは2度のリーグ優勝に貢献、阪神、日本ハムに移籍したあと82年限りで現役引退した。

▽幸運の裏に努力と工夫あり

 村上を知る当時の記者たちは、こう評した。
 文字通り、ラッキーボーイ、幸運な男だった。何が幸運か、といえば、まず、鶴岡監督の鶴の一声で留学したこと。それは「3カ月で帰ってこい」とう条件付きだったが、帰国命令が来ず、村上はアメリカでプレーを続けるしかなかった。災い転じて福となす? 村上はメジャーに昇格という「大金星」をつかんだのだから、南海の無視に感謝したい気分だった。
 村上の幸運は、まだある。日本人初安打を「左腕の神様」と呼ばれたドジャースのサンディ・コーファックスから65年に記録しているのだ。意表をついたセーフティ・バントを成功させた。
 「僕の勲章はコーファックスからヒットを打ったただ一人の日本人ということです」
 と自負する最大の勲章となった。
 勝負に運不運はつきものだが、村上には努力もあった。大リーグで通用するために、スクリューボールを覚え有力な武器とした。それを、打者のタイミングをずらす頭脳投法で使い、失点を最小限にした。
 村上の後、次の日本人大リーガー・野茂英雄が誕生するまで30年もかかった。21世紀になり、海を渡る選手が増え珍しくなくなったが、1960年代の状況を考慮すれば、初の大リーガー誕生は歴史を飾る1ページとなったのである。(続)