「菊とバット」-(菊地順一=デイリースポーツ)

◎監督候補に3人の近藤さん
プロ野球もそろそろ折り返し点が近づいてきた。秋風とともに首筋が寒くなっている監督さんもいるだろう。
 最近は以前に比べてアッと驚く監督人事が少なくなった。さまざまな理由があろうが、私、人材不足の面も大きい、とにらんでいる。
 いまでも歯ぎしりとともに思い出すのが大洋(現DeNA)の「ポスト関根」である。
 先般、お亡くなりになったその関根潤三さんは82年から84年の3年間、大洋の監督を務めた。5位、3位、そして最下位…。そう、秋風とともに監督交代がウワサされた。
 当時、私は大洋担当だ。ある日、球団関係者と雑談していると、さりげなく耳打ちしてきた。
「オイ、次は和さんらしいぞ」
 和さん。大洋OBで“天秤打法”の近藤和彦さんである。打撃コーチを務めていた。
 当時、関根さん率いる大洋は「長嶋招へい内閣」と言われた。81年オフに大洋本社が前巨人監督・長嶋茂雄氏の招へいを打ち上げ、関根さんに下地作り
を任せていた。
だが、長嶋さんの目はすでに消えていた。
近藤さんは関根監督と同じニッポン放送の解説者で、一緒に大洋に乗り込んでいた。ニッポン放送は大洋の株を30%保有していた。
私、何人かに取材、「あるな」と判断した。
 「大洋、次期監督に近藤和彦浮上」
 追いかけてきた社もあった。だが、その4、5日後だ。某社が、
「大洋の次期監督に近藤昭仁浮上」
と打った。
 大洋OBで1960年に日本一になった時のMVPだ。西武でコーチを務めていた。近藤昭さんは大洋球団内で信奉者が数多くいた。なんせMVPである。球団の幹部たちが担ぎ出したのだ。
 当時はニッポン放送が推す近藤和さんと球団派の一騎打ちとも報じられた。
 動きは止まったが、水面下で動いている人物がいた。S球団社長である。
この方は水産庁出身で、81年のオフに大洋漁業本社(現マルハ)の役員から就任した。球界にパイプはないが、球団社長として人事は「私が握っている」との自負があった。オレを差し置いて何をしている。憤りもあったと思う。
 このS社長が目を付けたのは近藤貞雄氏だった。当時、東京中日スポーツの評論家で、横浜スタジアムの記者席で大洋の戦いを追いかけていた。
 S社長と近藤貞雄さんがどうやって親交を深めていったかは割愛するが、S社長の「鶴の一声」でポスト関根は近藤貞雄さんに決まった。
 某社に出た。落とした。前夜、本社社長への夜回りを欠かした結果だった。いつもはしていたのに。その日だけ。それに、近藤昭さんは西武のコーチで就任はない、と勝手に読んでいた。
デスクにこってり叱られた。
 近藤昭さんが横浜の監督に就任したのは8年後の92年、近藤和さんは近藤貞雄さんの下で打撃コーチになったものの、監督就任はなかった。(了)