「いつか来た記者道」(39)-(露久保 孝一=産経)

◎第二の人生で華麗なパスキャッチを
 どんな職業でも、いつか辞める日が訪れる。かつて、会社員は終身雇用で60歳まで働き定年退職するのが普通のコースだった。
プロ野球の世界には終身雇用はない。精一杯働いて(活躍して)引退するのが「花道」である。しかし、その有終の美を飾る選手は少ない。なかには、一軍の試合に出る機会が少ないまま球団から戦力外通告されたり、病気・負傷で離脱したり、自らの力に見切りをつけたり、「道半ば」で引退を決断をする選手も多い。
 プロを辞めて「第二の人生」に挑む人たちには、昔も今も大変な苦悩と苦労があるが、別の世界で大きな成功を収める人も少なくない。むしろ、「野球を辞めてよかった」と笑える安堵と名誉を手にしているのである。
▽巨人戦でたった1度のマウンド
 1年延期された東京オリンピックがまもなく開幕を迎えようとしていた2021年7月上旬、横浜DeNAベイスターズの元投手、田村丈(たむら・じょう)がアメリカンフットボールへの転向を決めた。
田村が加入するのは、日本社会人Xリーグのイコールワン福岡サンズで、ポジションはワイドレシーバーだ。本人は「後悔はまったくない。日本代表、海外に行けるような選手になれるよう努力したい」と新たなチャレンジに目を向けた。
 田村は、関西学院大から15年に育成ドラフト3位でベイスターズに入団する。現役4年間で一軍登板は1試合だけしかなかった。育成選手から18年に支配下登録された。同年8月1日一軍での初登板は巨人戦だった。九回表、満員の横浜スタジアムで最初の打者中井大介を遊撃フライに打ち取ったが、結局3安打され2失点となった。これが最初にして最後の晴れの舞台だった。以後、二軍で暮らし翌年秋に戦力外となった。
 このベイスターズに、もうひとりアメフト転向の選手がいた。レギュラー遊撃手だった石川雄洋(いしかわ・たけひろ)である。プロ16年間で1169試合に出場し,10年には打率.294を残している。この石川が、戦力外となって21年3月プロ野球引退を決意、アメリカンフットボールXリーグのノジマ相模原ライズに加入した。
▽名キャスター、レスラー、ゴルファーへ
 長いプロ野球の歴史には、引退を余儀なくされ、その後の第二の人生で「挫折」「悲哀」を味わった人もいれば、「成功」「偉業」を成し遂げた御仁も少なからずいる。1955年~75年(昭和30~50年)には、以下のような華麗で個性豊かな転向を飾った人もいる。
 ≪佐々木信也≫ 大毎オリオンズなどプロで4年間活躍した後、26歳で引退しプロ野球解説者となる。1976年からフジテレビ「プロ野球ニュース」の司会を務め、野球解説・評論で人気を博した。
 ≪ジャイアント馬場(馬場正平)≫ 巨人に5年間在籍し、一軍登板は3試合だけで0勝1敗。引退後はプロレスラーとして大活躍し、プロレス人気を高めた。
 ≪八名信夫(やな・のぶお)≫ 明大時代は立大・長嶋茂雄の同期でライバルだった。大学2年で中退し東映に入団。15試合に登板し0勝1敗。腰を骨折しプロ3年で引退。東映の専属俳優となり、40歳後半に悪役俳優とともに「悪役商会」を結成。その後、テレビ、映画など幅広く出演する。
 ≪ジャンボ尾崎(尾崎将司)≫ 徳島・海南高のエースとして甲子園の選抜大会で優勝、西鉄に入団する。2年間で20試合に登板し0勝1敗、3年目に打者転向したが振るわず、オフに退団する。プロゴルファーに転向し、通算113勝(日本ゴルフツアー94勝)するなど人気のトッププレーヤーになる。
 昭和から平成、いま令和の時代となり、社会は多様化し、職業もスポーツもより細分化している。そのような社会で、ベイスターズでプレーした石川、田村は別のスポーツ、アメフトへ転身した。
元プロ野球選手としての第二の人生も、またファンから温かい眼差しを向けられるはずである。(続)