第43回 ダイアモンドが呼んでいる(島田 健=日本経済)

◎野球好きの叫び
▽メンフィスで録音
2009(平成21)年、日本のキング・オブ・ロックこと忌野清志郎が58歳で亡くなった。06年に米国メンフィスで録音された「夢助」は生前最後のアルバム。そこに収められたこの曲は、作者の野球に対する思いが凝縮されている。 
「ダイアモンドが呼んでいる 俺の心を呼んでいる」「Oh Baby 白いボールが 青空に吸い込まれて行くように」
独特の声で叫ぶように歌うのはまさに忌野節で、魂が心に届くよう。お約束のBabyもきっちり入っている。
▽野球はおじさんの趣味?
ロックンローラーとして世俗的な趣味は持たない、を身上としていた忌野がプロ野球に興味を示したのは40歳過ぎと言われている。結婚して子どももできて、バンド活動も一区切りついて、ふとオヤジらしい事をやってみたくなったようだ。プロ野球と競馬である。
プロ野球はやっぱりオジサンのものなのだ?。後に熱心な中日ファンとして有名になる。東京・国分寺育ちの彼がなぜドラゴンズ好きかという疑問には「日本全国、巨人ファン。右へならえという世の中が気に入らないんだよ」というロッカーらしいものもあるが、88年に生まれた長男竜平君の存在もあった。
▽中日・川又と親交
92年忌野は「2・3‘s」(ニーサンズ)というバンドを編成した。その時、関係者を通じて背番号23のレプリカユニホームを中日球団に要望したそうだ。すると川又米利選手が贈ってくれたという。以来、仲が良くなり、名古屋周辺のライブで川又選手が飛び入りで参加したこともある。
99年の中日優勝時の恒例の深夜の特別番組では、当時解説者だった川又の出演する局のゲストとしての登場を快諾、当日は法螺貝まで持参して放送を盛り上げた。
▽三浦友和と同級生
都立日野高校では俳優の三浦友和と同級生で「あいつにギターを教えたのは俺だ」というのが数少ない自慢話と一つだそう。三浦も最初は音楽家を目指して忌野のグループの手伝いをしていたが、音楽的才能に限界を感じて俳優の道を目指した。
両家は家族的な付き合いもあり、三浦の息子がバンドデビューした時には、はがきを書いて激励したそうだ。三浦は忌野の輝いていた舞台をもう一度見たかったという。筆者も二人と同級である。58歳はやはり早すぎる。
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