◎松永怜一に見た勝負の極意ー(菅谷 齊=共同通信)

1984年ロサンゼルス五輪の野球で監督として日本に金メダルをもたらした松永怜一さんが亡くなった(2022年6月12日、90歳)。小生は特派員として優勝まで取材をしたが、そこで心に残ったのは勝負師松永の姿だった。一発勝負の戦いは泥臭くも鮮やかで、理にかなっていた。
 このときのチームは社会人13人、大学生7人のアマ混成。メンバーは決まったものの、大学生は米国に遠征していたため日本では合同練習ができなかった。大会直前に現地で初めて顔合わせという状況だった。
 松永野球の基本に、1試合を3イニングずつ分けて戦う作戦があった。1回から3回までの序盤をホップ「手の内を探り合う」とし、4回から6回までの中盤をステップ「持てる力を発揮」し、7回から9回までの終盤をジャンプ「総力戦」とした。これは「日本では最初からジャンプ戦をするから途中で息切れする」「外国のチームが終盤に強いのと対照的」と判断していたからである。
 投手陣を巧みに使い分けた。戦法もスモールベースボールだった。台湾の郭泰源(西武)を中盤にマウンドから降ろしたし、決勝では大リーグのホームラン王となるマーク・マグワイアを軸とした米国を6-3で下した。投手は伊東昭光(本田技研-ヤクルト)宮本和知(川崎製鉄水島-巨人)吉田幸夫(プリンスホテル)とつないだ。優勝を決める本塁打を広いドジャースタジアムの外野席に放り込んだ広沢克己(明大-ヤクルト)には現地で即席指導をした。急作りのチームということもあって「きれいに勝とうとしなかった」「泥臭くても勝つ道を探った」のが成功して頂点に立った。
 松永さんは監督として法大で田渕幸一や山本浩二らを擁して黄金時代を築いた。五輪は住友金属時代のことで数多い実績のなかでも最高の勲章だったと思われる。日本チームの五輪優勝はだれも予想しなかったから「ミラクル・ジャパン」といわれた。野球人松永の“勝負の極意”を見た思いだった。同じチームと何度も対戦するプロ野球の監督にはない、一本勝負ならではの研ぎ澄まされた感覚を持っていた。
ロス五輪の野球は正式競技ではなく公開競技だったため、開会式と閉会式には参加できないという扱いだった。優勝した翌日には帰国の途に就いた。その後の日本の「五輪と野球」に弾みをつけたことはだれもが認めるところで、殿堂入りの意味はそこにある。(了)