「菊とペン」(30)-(菊地 順一=デイリースポーツ)
◎太田幸司にまつわる思い出とは…
猛暑である。日本の8月、その風物詩の1つは甲子園大会だろう。今年で104回目となる。大会では毎年フレッシュなスター選手が生まれ、ファンに強烈な印象を残してきた。松坂大輔、松井秀喜、清原和博、田中将大、桑田真澄、斎藤佑樹…どちらかと言えば最近のスターだが、各年代によってインパクトを与えてくれたスターは違う。
私の場合で言えば同世代の江川卓だが、もう一人忘れられないのが青森県・三沢高の太田幸司投手である。端正な顔立ちの甲子園のスター、いや元祖「甲子園球児のアイドル」だった。1968年、69年春・夏とセンバツ、夏と3大会連続出場を果たした。特に69年夏は東北勢として戦後初の決勝進出をし、2日間に亘って松山商相手に熱戦を繰り広げた。太田は1日目を1人で262球を投げ抜いた。2日目も全イニング投げ抜いた。
私は当時中学2年生だった。テレビにかじりついていた。2対4で敗れ惜しくも優勝はできなかったが誇らしい気持ちだった。いまでも懐かしく思い出す。
当時、青森と岩手は「北奥羽大会」で代表を争っていた。私は青森に一方的に負けていた記憶があったのだが、今回調べてみると違った。59年から72年まで6勝6敗の五分だった。間違って記憶していたのは太田投手の活躍が鮮明に残っていたからだろう。
太田はその美少年ぶりもあって女性ファンが早くからついた。特に決勝での悲運の熱投もあり、コーちゃんの愛称で全国的な人気を呼んだ。いま思い起こせば、社会現象のようなものだった。
夏休みが終わって二学期、クラスでは男女の別なく太田の話題でもちきりだった。特に女子はすごかった。授業の休憩時間となると、あちこちでグループができて、それぞれ太田への熱い気持ちを打ち明けている。積極的な女の子は黒板に相合傘を書いて片方に自分の名を入れて後ろを向く。別な女の子が残りの片方に「太田幸司」と書く。自分の名を書いた子が振り向いてキャー、女の子たちがワーッとはやし立てる。
男子たちはその様子をなんとも言えない表情で眺めている。自分たちも太田のファンなのだが、どこか異質である。本能的にかぎ取っていたのかもしれない。
気になる女の子がいた。熱狂的な太田ファンの輪に加わらず、騒ぐ様子を笑いながら見ていた。おとなしい静かな子だった。だが、その子は休み時間になるとノートを広げてなにかを熱心に書き込んでいた。一心不乱に。気づいた私がのぞき込もうとするとサッと手で隠す。頬を膨らませている。気になって気になって仕方ない。
ある時、その子が席を立った。何冊かある教科書の下にノートを置いた。席が近くだった。いまだ。チャンスだ。ドキドキしながらそのノートを開いた。
「エッ?!」、ノートには小さな文字で「太田幸司」または「おおたこうじ」とビッシリと何文字も何ページにもわたって書き込んでいた。休み時間だけではなく、自宅でも書いていたのだろう。
慌てて元に戻した。席に帰ってきた彼女の顔を見ることができなかった。騒ぎ立てる女子たちへの「負けられない」という対抗心だったのか。それとも太田への情熱を自分なりの方法でぶつけていたのか。あの物静かでおとなしい子が…。人は見かけによらない。そして正体不明の怖さを感じた。その子は鋭かった。私の態度が微妙に変わったからか。私のしたことに気付いたのかもしれない。よそよそしくなった。ノートの管理は厳重になった。
ともだちが自慢げに教えてくれた。「東映が太田を狙っているが、プロでダメだったら俳優にすると約束したらしいぞ」
どこで仕入れたのか。男同士の会話はこんなものだった。(了)