◎池永正明を惜しむー(菅谷 齊=共同通信)

 「池永って、どんなピッチャーだったの?」
 「天才だよ。最後まで投げていたら、300勝はしていたな。タイトルも数多く取っていただろうね」
 若い野球ファンとの会話である。2022年9月25日に亡くなった池永正明は、22歳の若さで球界を去った。1960年代半ばに発覚した八百長事件、いわゆる“黒い霧事件”に絡んだとして永久追放の処分を受けたからだった。
 池永は下関商の2年生エースとして63年の甲子園の選抜大会で優勝、その年の夏の選手権では決勝で惜敗している。快速球、抜群の制球、そして度胸満点の投球は、プロ入りした65年にすぐ20勝、最初の5シーズンで99勝、処分を受けた70年の4勝を加え登板238試合で通算103勝を挙げた。
 事件で名前が出たとき、池永は「(敗退行為は)やっていない」と報道陣の前で涙を流しながら無実を訴えた。ただ黒い金を「預かった」ことは認めていた。先輩投手をかばって当初は否定していたが、それが調査人の心証を悪くしたのだろう、と言われた。球界の中から「見せしめの追放」という声が上がった。前途有望の若者を切るほど事件は悪質で、プロ野球の将来にかかわると判断されたのだった。
 徳島・海南高のエースで選抜優勝(64年)した尾崎将司は池永と西鉄の同期だったが、池永の投球を見てその素質に驚き、将来を見据えてプロゴルファーに転向したというエピソードがある。
 大谷翔平と対戦したら、胸元へ速球が投げ込まれるだろう。池永の速球は3段ロケットのように伸びてくる。大谷がのけぞる姿が想像できるのである。マウンドでそれを見て不敵な笑いを見せ、遠慮容赦のない快速球で勝負に出る。大谷がそれをどう打ち返すか、想像するだけでわくわくする。
 もし、何事もなく投げ続けていたら、と残念に思う。何度も20勝を重ねただろう。動画を見たら分かる。「惜しい」の一言である。(了)