第2回「長嶋茂雄、幻の大洋監督」
◎熱烈ラブコール、届かず
▽長嶋招へい前提の関根監督
大洋はミスターの言葉通り、土井淳(きよし)監督の後任に関根さんに監督を要請した。関根さんの法大時代からの恩師、藤田省三さんが「なんで長嶋の代わりに、おれの愛弟子の関根が監督をしなければならないんだ」と強く反対する一幕もあったが、長嶋招へいを前提とした関根監督が誕生した。81年10月のことだった。
大洋はミスターを迎え入れるレールを敷いて朗報を待った。
82年、関根体制がスタートしたが、大洋球団の長嶋監督誕生に向かっての水面下の動きは続いた。
しかし、ミスターの心は決まらない。
横浜市民からも長嶋監督実現を求める声が強くなり、さまざまな情報が乱れ飛ぶようになった。大洋はあきらめることはなく、シーズンが変わっても強烈なラブコールを続けた。
▽「王と対決しようとも思った」
「日本シリーズが行われている最中に、ほかのことで騒がせてはいけない」
常日頃、そう言っているミスターが大洋監督招請に対して決断した。関根監督が大洋2年目でAクラスに入った1983年秋、日本シリーズの興奮も冷めた11月9日のことである。
この日の早朝、都内のホテルにいるミスターから私の自宅に電話があった。
このころの長嶋家は、24時間というもの取材陣のマークがあり、ミスターは自宅に帰ることができなかったので、よくホテルに泊まっていた。その宿泊しているホテルからの電話だった。
「ここ4、5日ほど考えたけど、ユニホームを着るのは止めようと思う」
その第一声を聞いて、私は血の気が引くのを感じた。ミスターは言葉を続けた。
「大洋には感謝どころか、お礼の言葉もない。これだけ誠意をみせて頂いただけに、それに応えられないのは申し訳ないどころではない。でも、許してほしいんだ。オレはこれから別の人生を歩むつもりだ。だから大洋以外のユニホームは絶対に着ない。男として約束する。とりあえず野球界には戻らない」
そして、心の葛藤を吐露した。
「8月、そして9月と、ほんとうはその気になったんだ。後楽園、横浜で王と対決しようとも思った」
▽「いろいろな訳があって」
ミスターの言葉はほとばしるように続いた。
「現場に戻らないのは、大洋のユニホームを着るな、などという読売の圧力ではない。いろいろなことをいろいろな人が言っているが、全てオレの考えではない。オレは関根さんや待っていてくれる全国のファンの気持ちも考えた。でも、いろいろな訳があって・・・」
気持ちの整理がついたのか、静かなトーンになった。
「こうなったからには、何としても関根さんに頑張ってほしい。どうか、皆さんにはくれぐれもよろしく。申し訳ない」
申し訳ない、と言って電話は切れた。私は全身の力が抜けてしまい、電話の前に座り込んだ。
しばらくしてから、大洋の秋季キャンプが行われている静岡・伊東のスタジアムの関根監督に電話を入れた。
「そう・・・」
関根さんは、それだけ言うとあとは何も言わなかった。ほんとうに、何の言葉も発しなかった。
午前9時になるのを待って東京・大手町の大洋漁業本社に電話した。関係者はみんな同じように絶句したままだった。(続く)