第4回 球史最大の遺恨試合(2)(菅谷 齊=共同通信)
ホームインを防止する捕手の行為をきっかけに大荒れとなったロッテ・オリオンズと太平洋ライオンズの試合。実は前年にその原因が潜んでいた。
▽一塁上のスパイク事件で両軍激高
事件が起きたのは1973年(昭和48年)5月3日、川崎球場でのことだった。
4回表、太平洋の竹之内雅史が遊撃へゴロを放った。遊撃手が捕って一塁へ送球。普通ならこれでアウトが成立し、次へ進むところである。ところが一塁ベースに駆け込んだ竹之内が一塁手のジム・ラフィーバーをスパイクした。
「なにをするんだ」
一塁側ベンチにいた金田正一監督が飛び出した。川崎球場は狭いから、ロッテのベンチからは一塁上でのプレーは目と鼻の先である。
金田のダッシュが合図となったかのように、三塁側ベンチから太平洋の選手が一斉に飛び出した。
選手同士のこづき合い、罵詈雑言・・・。
現在の野球では考えられないような荒っぽい光景となった。
この試合は3回表に太平洋が基満男の2点本塁打で先制。その裏、ロッテは成田文男投手の二塁打やジョージ・アルトマンのタイムリーなどで3点を挙げ、一気に逆転していた。
太平洋としては奮起しての攻撃となったのだが、スパイクは問題外だった。
そのプレーについて金田はこう語っている。
「ベースを踏まずに野手の足を踏むのはいかんだろ。いくらエキサイトしていても、だ」
その通りなのだが、付け加えた一言が悪かった。
「ガラが悪いやないか」
騒ぎはとんでもない方向に向かった。
▽一歩も引かない「天皇」と「神様」のプライド
当時のパ・リーグの状況を説明しておく。
人気を盛り上げるために前期、後期の2シーズン制を採用。これで65試合の短期レースとなり、どのチームにも優勝のチャンスが生まれた。
騒動が起きた5月は前期のヤマ場だった。太平洋の調子が良く、優勝の可能性があった。ロッテも太平洋を追う形で、やはり優勝の好機と頑張っていた。
太平洋の稲尾和久監督は3年前の70年に西鉄ライオンズ監督となっていた。監督に就任したとき、南海ホークスが野村克也、阪神タイガースが村山実をそれぞれ監督にしており、「青年監督トリオ」と呼ばれ話題となった。
稲尾はチームが太平洋に変わっても指揮を執っていた。
一方、ロッテはタレントとしても人気のあった金田を監督に迎えた。
パ・リーグはそれまでの暗いイメージが吹き飛び、注目を集めた。メディアにも大きく取り上げられるようになった。
騒動は監督が金田、稲尾というところに大きな見所があった。
金田は通算400勝。14年連続20勝に奪三振記録など、まさに記録男として君臨した。ニックネームも“黄金の左腕”に加え、なんと“天皇”とも。
片や稲尾は日本シリーズ3連覇の主役であり、シーズン20連勝に、シーズン42勝というけた外れの成績を残している。“神様仏様稲尾様”と称えられた。
二人の共通項は「大投手」。
この超大物がちょっとやそっとのことで引くわけがない。チームの順位争い、選手の争いとは別の次元の戦いを演じていた。プライドの激突である。ほかの誰もが介入することのできない戦いだった。闘い、といった方がいいだろう。
スパイクをしたことから遺恨が始まった。(続)