第10回 日系プレーヤーの先駆け、ジミー堀尾(菅谷 齊=共同通信)

▽移民の子、大リーガーを目指す

日本チームの中に堀尾文人という外野手がいた。彼は日系二世である。両親は日本人で、ハワイへは移民労働者として太平洋を渡った。20世紀に入る前後のことだった。
 8人きょうだいの7番目としてハワイで生まれた堀尾は、ジェームスと名付けられた。ジェームス・ホリオ・フミトが本名である。ジェームスの愛称の一つ、ジミーと呼ばれた。そのため、のちに日本球界で活躍する堀尾は、堀尾文人、あるいはジミー堀尾と表記されることになる。
 このころの米国の野球は、1901年に大リーグが現在のナショナル、アメリカンの2大リーグで再スタートしたこともあって、全国的に人気のあるスポーツとなっていた。当然、ハワイにも野球熱は伝わった。
 堀尾は野球少年の一人で、群を抜いていた選手だった。
 「将来は大リーガーになる」
10代でその夢をかなえるために米本土に渡ったほどだった。
さすがに甘いものではなく、すぐハワイに戻り、地元でプレーし、実力をつけてから再び本土に向かった。

▽強肩俊足にスイッチヒッターで即サイン、野望のスタート

「全日本チームの結成」
 ロサンゼルスのチームに所属していた堀尾がそのニュースを知ったのは、1933年(昭和8年)のことである。
 全日本チームの三宅大輔監督に、堀尾は手紙を出した。
 「外野手として活躍できる自信がある」
 売り込みである。自分のプレーする写真を同封した。
 米国育ちだな、と思うのは次の一文である。
 「妻と一緒に日本に行くから、よろしく頼む」
 34年9月、ロサンゼルス、ホノルルを経て日本に向かった。船中から三宅に改めて電報を打っているから、三宅は強い意識を感じた。
 テストを行った。三宅は目を見張った。肩が強く、足が速かった。さらに堀尾はスイッチヒッターで、それまでの日本球界にはないタイプのプレーヤーだった。
 ベーブ・ルースらと戦う日米野球の後に編成することになっている大日本東京野球倶楽部の契約も決まった。月給は180円で三原脩と同額だったことをみると、相当高く実力を評価している。やはり米国でそれなりの活躍をしていた垢ぬけたプレーヤーだったのだろう。
 この日系選手は日本のプロ野球界に大きく貢献している。その代表選手に阪神などで活躍した名投手の若林忠志や巨人に入団したウォーリー与那嶺要らがいる。
 堀尾は日本のプロ野球に入団した日系選手の第1号だった。彼の活躍が日系選手の来日を盛んにした。
 こんな話がある。
 堀尾の夢は大リーガーになることだった。米本土でプレーしたものの、その壁は大きかった。ルースらがブームをつくり、大物選手が次々と現れていたころなのだから。全日本チームに入団したのは、対戦する大リーガーの目の前で活躍し、それを足場に大リーグに行こうという野望を持っていたというのである。(続)