「インタビュー」山本泰②

 山本が進学した高校、法政二高の名前も高校球界での存在を知らなかった。関西の雄、京都の平安高に行きたい希望は、父親(南海監督)の一言で神奈川県に行くことになった。

法政二高の野球部時代の硬式ボールを手に思い出を語る山本泰氏

-オヤジさんの言葉は重たかった…。
 山本「そうです。法政二高を知らんのか、甲子園に4年連続出ておる学校だ-と言われました。中学生ですし、平安高校しか頭になかったから仕方ないですよね」(笑)
-大阪から神奈川へ、大変だったでしょう。
 山本「法政二高の田丸(仁)監督がウチに来ました。すぐ連れて行かれましてね。住まいは横浜のオヤジの知り合い。全部準備されていたんですね」

(当時の法政二高は全盛時代で、甲子園の1960年夏の選手権大会、61年春の選抜大会と夏春連続優勝。のち巨人の柴田勲をエースとしたチームで“戦後最強”“社会人クラス”“難攻不落”と評価されていた)

-練習参加は…。
 山本「当時は中学生が練習に参加してもよかったんですね。田丸さんが、柴田が投げるから打ってみろ、と。振ったら打球はセンターのはるか向こうに飛んで行った。それからずっと練習に出ました。中学校へは卒業式に帰りましたけど」
-ポジションは。
 山本「レフトでした。それまで守ったことがないので戸惑いました。中学時代はショート(遊撃)とピッチャーでしたから」
-チームの感想は…。
 山本「すごかった。レベルが高くて、ついていけるのかなあ、と思いましたよ。投攻守走に加えて頭を使う、とすべてに洗練されている。日本一というのが分かりました」
-そのほかに驚いたこと、感心したことは。
 山本「部員全員がルールブックを持って勉強していたことですね。みんなルールを知っている。そのルールブックは毎年、プロ野球機構から購入していたと思います。とにかく野球のイロハを知っている」

-法政二高は春の選抜に優勝しているが、そのときは…。
 山本「甲子園のスタンドで見ていました。1年生ですから」
-印象は。
 山本「勝つべくして勝った、という感じでした。ただ浪商(大阪)との試合は緊迫していましたね」

(浪商のエースは2年生の尾崎行雄。剛速球で知られ、61年夏の甲子園で優勝すると中退し、プロ野球の東映に入団。新人の62年に20勝を挙げた)

-山本さんはセンバツが終わった後、レフトのレギュラーになった。
 山本「そうです。夢中でした」
-バッティングが良かった、と。
 山本「あるときフリーバッティングでレフトへガンガン飛ばしていたんです。そうしたら先輩にきつく注意されました。そんなバッティングで尾崎を打てるか、と」
-その意味は…。
 山本「法政二高は前年の夏の選手権大会、続く春の選抜大会と2季続けて優勝しており、次の夏に3季連続優勝がかかっていたし、周囲もそれを注目していました。それを達成するには浪商に勝つことが絶対条件として練習していたんです。先輩は、尾崎の球を引っ張って打てるか、ということなんです」
-尾崎攻略のポイントは。
 山本「右へ打つことです。私は右打ちでしたから。引っ張ったら打てないことは、先輩が実際に尾崎と対戦して分かっているわけです」
-法政二高は夏、春と尾崎に勝っている。それでも尾崎、と。
 山本「そうなんです。すべて尾崎をどう打つか、なんです。尾崎を打てるようになれば、そのほかの投手は打てる、というわけですね」
-県予選は必ず勝てるというわけで…。
 山本「先輩たちは、甲子園に行くのは当たり前、と思っていましたね。尾崎も大阪府予選に勝つのは当たり前、敵は法政二高、として練習をしていたと聞きました。両校が傑出していたんですね」

 その通り、61年夏の甲子園には、法政二高と浪商がそろって代表となった。山本は左翼手としてユニホームを着た。1年生16歳の夏だった。(続)