「100年の道のり」(31)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎国内ロード、沢村人気でプロのPR
 米国遠征から帰国した東京ジャイアンツは、その成果を披露するために国内を遠征した。第1期の東北・北海道を皮切りに、第2期が西日本、第3期が関東・東北、第4期は関東・東京。1935年9月6日から旅に出た。
 各地の興行はさまざまな条件を付けられた。スポンサーが求めたのは、すでに全国に名前が知れ渡っていたスクールボーイ沢村栄治の登板だった。
 「沢村なら集客のめどが立ち商売になる」
 ジャイアンツは収入を得るために、その条件を飲んでローテーションを組んだ。毎試合、複数の投手を起用し、その中に沢村を入れた。投球イニングを短くすることで、沢村の負担を軽くした。
 成果披露と同時に、プロ野球発足の機運を盛り上げるPR効果を狙ったロード作戦でもあった。沢村はその一枚看板だった。
初戦は全青森。ジャイアンツは1回に6点、2回に2点という猛攻で、12-0で圧勝した。投手は青芝健憲一、ビクトル・スタルヒン、そして沢村とつなぎ、被安打2、9奪三振。打線では水原茂、苅田久徳、永沢富士夫がいずれも3安打を放った。
「目標は全勝」が崩れたのは第2期、9月下旬の熊本鉄道管理局(熊鉄)戦だった。0-1と完封負けしたのである。軟投にかわされ、わずか2安打。
 ジャイアンツはその前日、大分県別府でダブルヘッダーを終え、夜行列車で
熊本に向かった。ところが、途中のトンネルで列車事故が発生。チームは列車から降りると、農家から借りたリヤカーに用具と道具を積み、徒歩で山越えした。現在ではありえない事態に遭遇したが、試合日程に穴を開けることはしなかった。
 後年分かったことだが、この試合を熊本工2年生だった川上哲治がスタンドで観戦していた。川上は間もなくジャイアンツに入団し、球界を代表する強打者、監督として名を挙げるが、この試合観戦が川上の初めてのプロ野球との接点だった。
国内ロードでもっとも注目されたのは9月中旬の川崎コロムビア戦。都市対抗の強豪で知られ、エースは若林忠志。のちプロ野球で“七色の変化球”と呼ばれ、日本シリーズ最初の勝利投手など一時代を築いた名投手である。
場所が横浜ということもあって、8800人を超える観衆で埋まった。圧巻は先発沢村で、被安打5に抑え、13三振を奪い、6-0で完封した。
かつて国内にプロ野球チームができたが、いずれも短命に終わった。その最大の原因は試合相手がアマチュアだったことである。この対戦では実力に差がありすぎるため、どうしても面白みに欠けた。
正力松太郎はそれが分かっていた。だからプロ球団の参加を求めることにし、その役割を東京ジャイアンツが担った。(続)