「100年の道のり」(55)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎球界を支えた19年、20年生まれ
巨人の中島治康が史上初の三冠王に輝いた1938年(昭和13年)は、その後の球界を支える逸材がプロ入りした年でもあった。熊本工から捕手の吉原正喜と投手の川上哲治、松山商からは内野手の千葉茂らは「花の13年組」と呼ばれた。
川上は打者に転向すると、正一塁手が体調不良で欠場したときに代役で出場し、快打を飛ばしてレギュラーを奪った。ヤンキースの一塁手ルー・ゲーリッグがチャンスをつかんだのと同じである。川上は史上初の2000安打を放ち“打撃の神様”の異名を取り、監督としても9連覇を達成、選手と監督で大成功した唯一の野球人だった。
この川上の隣の二塁を守ったのが千葉で、打ってよし、守ってよしのセンスの塊のような選手で、守備の苦手の川上をカバーしたところから「ワシは一・二塁手や」と言ってのけた。
吉原はファイターとして将来を期待されたが、戦死するという運のなさだった。
彼らの生まれは19年(千葉、吉原)と20年(川上)で、学年は一緒。この両年に生まれた選手たちは、プロ入りの年次は異なるが、戦後まで活躍したホープが多かった。
19年生まれは、沢村栄治の京都商の後輩、左腕の中尾輝三がノーヒットノーランを達成している。右腕の白木義一郎(慶大)は30勝を挙げるほどの実力者で、その一方、投手ゴロを捕ると、捕手の方へ転がし、捕手がそこから一塁に送球してアウトにするなど、奇抜なことをすることで人気があった。
一塁手の飯島滋弥(慶大)は首位打者であり、1試合2本の満塁本塁打を放った。東映の打撃コーチ時代、大杉勝男に「月へ向かって打て」と指導したエピソードがある。遊撃手の皆川定之は阪神時代の名手として、外野手の原田徳光(明大)は中日の“いぶし銀“に例えられた巧打者として知られた。
20年の早生まれ組は林義一(明大)がパ・リーグ最初のノーヒットノーランをやってのけた。服部受弘(日大)は捕手もやれば投手もやり、打撃も素晴らしかった。中日を背負った“三刀流”だった。
一塁手の中河美芳(関大)は、送球を受けるとき柔らかい体の使い方で“タコ足”といわれた捕球の名人だったが、戦死した。
深見安博(中大)はシーズン中に西鉄から東映にトレードされながら、その年の本塁打王になった。樋笠一夫(高松中)は巨人時代、史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打をかっ飛ばし、この1本で球史にその名を残した。打った相手の投手は魔球フォークボールの杉下茂だった。(続)