「中継アナの鉄人」深澤弘さんを悼む(12=最終回)-(露久保 孝一 = 産経)

◎男の友情だからこそ「言わぬが花」
 私はこの連載記事で、書きたいが書けないというものがあった。深澤さんのミスターとの熱き友情を思えば、記事にしない方がいいと自分に言い聞かせてきた。それは、長嶋さんが大洋ホエールズ(現DeNA)の監督に就任するという「世紀のビッグニュース」が幻に終わった話である。
 大洋側の交渉役には深澤さんがついた。深澤さんが所属するニッポン放送は、大洋球団の筆頭株主だったからである。深澤さんは長嶋さんと何度も会い、大洋入団に向け着々と話し合いを進めた。その時の状況を、私は連日電話で報告を受けた。だから、長嶋獲得交渉の過程は物語が一歩、一歩進むように私はわかっていた。
▽週刊誌記者に追われ答えに窮す
 1981(昭和56)年梅雨の頃、私は週刊文春のH記者の取材を受けた。「長嶋茂雄さんの大洋入りの交渉をしている人を教えてほしい。マスコミの人という。それは誰か?」。私は、困った。H記者は知り合いだからである。そうでなければ、「知らない」と即答するのだが、「それは自分の口からは言えない」と返事してしまった。それがまずかった。「知っているなら、お願いします」と食い下がられ、少しのヒントを与えて別れた。3日後、今度は週刊新潮のO記者から同じ質問を受けた。同記者には「僕は知らない」と返事した。
 このことを深澤さんに伝えると、「自分の名前は絶対に言わないで。名前が表に出たらオレは仕事ができなくなっちゃうから」といつになく厳しく口調で言われた。文春にも新潮にも、「長嶋獲りのミスターX」という記事が出たが、深澤さんの名前は出なかったので、僕は一人胸をなでおろした。
 秋になり、深澤さんから、「あす伊東(静岡県)でミスター夫妻と話し合う。大洋入りが決まると思う」という連絡を受け、わが社は世紀のスクープを用意した。ところが翌日、深澤さんからダメだったとの電話が入った。なぜダメだったのか、私はそれは書けない。私が書けば、深澤さんは長嶋さんと亜希子夫人との長年築き上げた友情の絆を断つことになるからである。
▽我が苦悩を隠しミスターを愛し続けた
 深澤さんは『わが友長嶋茂雄』(徳島書店、1994年)で、大洋の長嶋獲得の動きを具体的に書いている。私は、この本を読んで唖然とした。長嶋さんとの極秘交渉、伊東での三者会談の件がすっぽり抜けているのである。私は、深澤さんの気持ちが分かるので、三者会談をなぜ書かなかったのかとは問わなかった。私に告げた三者会談の内容を著書で書けば、深澤さんのアナウンサー人生に大きな傷を残してしまう。
 深澤さんは、ミスター長嶋を愛するがゆえに「言わぬが花」を通したのである。三者会談のことは深澤さんと私の秘密でもある。私も「言わぬが花」で今日まで来ている。
◇深澤さんの追悼の文を、氏に語りかけながら一年間書いてきた。私の顔を見ると、傍によってきて笑顔で話しかけてくれた良き先輩の野球人生哲学を思い出しつつ、私はジャーナリスト生活を続けていきます。(完)