「100年の道のり」(79)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎巨人初の負け越し、三原登場
 戦後の巨人は成績が芳しくなかった。1946年(昭和21年)は2位だったものの、翌47年は5位に沈んだ。こんな状態だった。
チーム 勝 敗 分  率  差   監督
① 阪 神 79 37 3 .681  ―  若林忠志
② 中 日 67 50 2 .573 12.5 杉浦 清
③ 南 海 59 55 5 .518 19.0 山本一人
④ 阪 急 58 57 4 .504 20.5 西村正夫
⑤ 巨 人 56 59 4 .487 22.5 中嶋治康・三原 脩
⑥ 東 急 51 65 3 .440 28.0 苅田久徳
⑦ 太 陽 50 64 5 .439 28.0 藤本定義
⑧ 金 星 41 74 4 .357 37.5 坪内道則
それまで5連覇するなど最強を誇った巨人が初めて勝率5割を切った。首位阪神とは5勝12敗と惨敗し、しかも22.5ゲーム差をつけられたというのもショックだった。
「これは事件である」
巨人フロントの動揺は激しかった。8チームのうち、監督交代の挙に出たのは巨人だけだった。
 4月から5月にかけて8連敗を喫し、最下位に転げ落ちた。そこで立て直しに動き出し、三原脩を助監督に迎え、さい配を委ねた。6月初めのことである。
 投手陣は川崎徳次が24勝を挙げて踏ん張った。打線は千葉茂、川上哲治の3、4番が頑張った。しかし、戦力不足が響いて勝利に結びつかなかった。
 優勝した阪神はダイナマイト打線が爆発し、ほぼ独走でシーズンを乗り切った。打の中心は藤村冨美男で勝負強さを発揮、打点王となってチームを引っ張った。
 この年の巨人メンバーに、投手陣にのちに中日などで監督を務めた近藤貞雄、沢村栄治の京都商の後輩にあたる中尾輝三、打線では慶大のスター宇野光雄、塀際の魔術師の異名をとった平山菊二、のちにチフスで亡くなる黒沢俊夫らが見える。
 オフに総監督となった三原はチーム再建に乗り出す。そして大問題を起こすことになる。(続)