「ONの尽瘁(じんすい)」(14)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

◎これほど怒った監督・王貞治は見たことがなかったー
1986(昭和61)年4月26日、巨人ナインは真昼の多摩川グラウンドで「異例の」全体練習を課せられた。試合のない曜日ではない。先発陣だけの軽めの調整でもなく、特定選手のミニキャンプでもない。練習後に横浜スタジアムでの大洋とのナイターが控える中、全員による練習が組まれたのだ。
実は前日25日の大洋戦、バントの失敗あり、内外野の3失策ありと攻守で精彩を欠き4-5で逆転負けを喫していた。まだ開幕して1カ月も経たない状況での体たらくとあって、王は危機感を抱いた。チームにカツを入れるべく、試合後の緊急ミーティングで翌日の全体練習を即断した。
このなかで「事件」は、起きた。練習に先駆け、身の入らないクロマティが思わずグラブを蹴り上げた。これを目撃した王が激怒。
「クロウ!! カモン!!」。クロマティのチーム内での呼称を叫びながら、みずからもにじり寄った。王は、何か弁明しようとするクロマティを制して、その左胸の辺りを手で小突きながら「No、No、No!!」と、首を小刻みに振りながらいさめた。
王が報道陣の面前で、これほど感情を爆発させるのは珍しい。それもそのはず。クロマティの行動は明らかに首脳陣に対する「造反」であり、首脳陣批判に相当するものだった。現在風に言うなら、コンプライアンス違反ということになるだろう。さらに、自分の分身ともいえるグラブを足蹴にするなど、何事も「道」につながる日本では考えられない行為だった。目撃した多摩川のファンにもきっとショックな光景に映ったことだろう。
就任3年目。何が、何でもV奪回が掲げられたシーズンだった。それでなくても、先に巨人監督を務めた長嶋茂雄の初優勝は2年目に達成済み。既に先を越されたあせり感が王にはなかったか?
初めてといっていいほど己の意思を通してコーチ陣を入れ替え、ドラフトで桑田真澄の単独指名、トレードで有田修三の補強獲得と万策を講じて臨んだシーズンだけに、いきなりのつまづきはやはり痛かった。何より指揮官と関係良好とみられたクロマティによる造反は、王の失意をより深刻なものにした。
事件後のナイター。昼間のショックを引きずったせいか、巨人は5点差を追いつかれた。後味の悪い、5-5の引き分けに終わった。スカッと勝っていればチームを覆うネガティブな雰囲気も霧消しただろうに、スンナリいかないところがもどかしい…。
当時のチームを取材して、私は指揮官と選手の「溝」を深く感じていた。後日談になるが、取材に応じる選手たちはオフレコを条件に、次々と口を開いた。「俺たちはプロなんだ。シーズンの真っ最中、なぜキャンプのようなことをしなくちゃならないんだ?」「クロウの態度はだめだが、もっと選手を信頼してほしい」
この造反劇を経ても、指揮官は厳しい姿勢を変えなかった。不人気をかこった多摩川での白昼練習はその後も数度続いた。年に1度の北海道遠征などで敗れると、「外出禁止令」を発動。知人との再会や美味堪能の機会を奪われた選手は、恨めしげに自制するしかなかった。
王はそのシーズンが終了した段階で、クロマティの一件をこう語っている。
「結果的にああいうことがあって、かえってよかったと思うんです。彼も自分の意志を表現するし、こちらも、それじゃあダメなんだということを強く言わないと…。そのときはぶつかる形となりますが、長い目で見れば気持ちが1つになるというか、また目覚める部分もあるでしょうから」
王の先見性もある意味では的を的を射ていたと言えなくもないが、いずれにせよ、この86年は王の政権下で、最も不運で、悲劇的な戦いをしいられたシーズンだった。一定のVラインである75勝を挙げながら、最大5.5差をつけながら、広島に逆転優勝を奪われてしまったのだから。
クロマティの造反は、そのシーズンの不穏な空気を示す端緒といって差し支えなかった。(続)