「ONの尽瘁(じんすい)」(16)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
巨人監督・王貞治にとって就任3年目に当たる1986(昭61)年こそ、初優勝への手応えをつかんだシーズンといえた。開幕戦で初めて勝ったのを皮切りに同カード3連勝。巨人にとって前回優勝した藤田政権下の83年以来の開幕3連勝は、まさに吉兆スタートとなった。
王はシーズン前、こう語っている。「今の野球は開幕ダッシュが一番大事。昔は30試合なんて言われたけど、今は20試合をどう戦うか。開幕3連勝なら最高ですけど、2勝1敗で入れれば…」
ヤクルトとのその開幕カードで目算以上の果実がもたらされ、先行きに期待を抱かせた。開幕から10試合を7勝3敗。そして目安とした20試合を11勝8敗1分けで駆け抜けた。1年目は5勝10敗5分けと失敗。2年目は11勝8敗1分けと同じ星勘定ながら、4月の月間成績は5勝8敗だった。
それでなくても、巨人のお家芸はシーズン終盤の「まくり」や「差し」の展開より、序盤のリードを生かした「先行逃げ切り」にあった。V9時代から染みついた「Vパターン」といってもいいだろう。チームの特徴を生かしたペナントを展開するうえで、20試合をどう優位に戦うか。それが、王の戦略だった。
「今年こそ!!」。それがキャンプ時からチーム内の合言葉になった。指揮官はミーティングで選手1人1人に目標を宣言させ、それをチーム全体の総意、つまり優勝という意識付けに結びつけようとした。
1月のグアムキャンプ。スコールの上がったパセオ球場から宿舎までの約10㌔のロードワークに自主的に取り組む江川卓の姿に、指揮官は表情を和らげた。
なぜなら王はチーム強化の最優先事項に投手陣、中でも江川の復調を挙げていた。投手陣の大黒柱が動けば、若手も引っ張られて動くはず。エースの率先垂範がチームに及ぼす効果を狙ったその思惑は、好敵手だった西本聖はもちろん次代のエース候補・槙原寛己、斎藤雅樹、水野雄仁、新人左腕の宮本和知ら先発ローテ入りをかけた争いに大いに資するものとなった。開幕投手を任された江川はきっちり完投で役割を果たし、その年、16勝(防御率2.69)を挙げるなど前年の11勝(同5.28)から復調を果たした。
当時の江川といえば、全盛期を過ぎ、しかも右肩痛にさいなまれていた。江川自身は肩の具合をトレーナー以外の誰にも打ち明けなかった。首脳陣は〝薄々〟気づいていたようだが、本人から直に申し出がない以上「状態として投げられなくはないのだろう」と見ていた。江川にとって悩ましかったのは、日によって痛みの現れ方が違ったことだろう。肩が上がらず歯磨きできないほどの日もあれば、うそのように痛みのない日もあったという。自身も「朝起きてみないと痛みがわからない。先発の朝が怖かった」と振り返っている。
肩の異変に限らず、江川は体調の善し悪しや故障の程度を監督始めコーチに明かさないのを常としていた。故障を言い分けにすることはエースとしての本分に反する。仮に自分が登板を回避すれば、他の投手へしわ寄せが及ぶ。調子が悪ければ悪いなりに投げて抑えるー。それが、江川流のマインドだった。
肩やひじ痛、故障の回復のため球団内外の医療スタッフ全員が一丸となって取り組み、自身もじっくり時間をかけて調整する昨今の球界のやり方なら、江川の現役生活はもっと長らえたかもしれない。否、もしそうでも、みずからの肩や肘にメスを入れることを、江川は拒むだろうし、「太く、短く」の生き様を覆すことも本意ではなかっただろうが…。
指揮官がV奪回への最重要課題と位置づけた投手陣の強化。それは江川の復調だけでなく、先発ローテの再編、新加入サンチェを加えた救援陣の充実、ルーキー桑田真澄の育成に至るまで、新たに招へいした皆川睦雄投手コーチとともに取り組まなければならない問題で山積されていた。それも、どの過程にも人気球団ならではの悩みとともに一筋縄ではいかない「事件」や「事故」がついて回り、王はそのつど、みけんのシワを深く刻ませるのだった。(続)