「100年の道のり」(81)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎1年で解散、あだ花だった国民リーグ
戦後間もないプロ野球の世界に第3のリーグが生まれた。国民リーグという団体で参加チームは4。主導したのは宇高勲という人物で、自動車部品の製造で成長した新興成金だった。
宇高ははじめ既存のプロ野球に加盟申請をしたのだが断られた。理由は「9球団になると組み合わせが難しい」。そのときに「別組織のリーグを作ったらどうか」とのアドバイスを受けた。プロ野球が再開した1946年(昭和21年)のことである。
宇高は宇高レッドソックスと名乗り、加えて3球団を集めた。映画館やキャバレーを仕切る遊興産業の結城ブレーブス、飲料サイダーメーカーの唐崎クラウンズ、そして洋傘で大儲けした大塚アスレチックスである。
翌47年に公式戦が始まった。
▽夏季=①結城20勝10敗②大塚17勝13敗③宇高16勝14敗④唐崎7勝23敗
このあと宇高産業が国税庁から課税処分を受けて会社が傾き、建設業の熊谷組に譲り、熊谷レッドソックスとなった。言い出しっぺが半年ほどでギブアップしたのである。
▽秋季=①大塚15勝6敗②結城12勝7敗2分③熊谷9勝10敗2分④唐崎4勝17敗
フランチャイズもないのに強行するという無謀さ。スタートこそ後楽園球場だったが、あとは地方を歩き回った。東北、関東、中部、関西、中国、九州と転戦した。有名選手がおらず、観客動員はままならなかった。興行主に持ち逃げされたこともあった。
秋季は試合数も減り、前途が見えなくなった。翌48年2月、あえなく「解散」を宣言。哀れ1年で国民リーグはつぶれた。まさに“あだ花”だった。ロ野球から選手引き抜きに失敗した裏面があった。(続)