「たそがれ野球ノート」(17)-(小林 秀一=共同通信)
◎わしは日本の反逆児
江夏豊が米大リーグ入りに挑んだのは1985年春だった。前年の西武在籍を最後に球界から引退したが、退団時のしこりから「不完全燃焼」と言う江夏をミルウォーキー・ブリュワーズが3A契約でキャンプに招いた。
うまくいけば大リーグへ昇格となる。日本人大リーガーの草分け的存在の野茂英雄投手がトルネード投法でブームを起こす10年も前のことだった。
二十代の人たちと野球談議をしていて、江夏が1シーズン401もの三振を奪った屈指の名投手であることは知っていても、大リーグ挑戦について触れると
「うっそお」「ほんとに」
と驚きの声が上がった。
「よしよし」、待ってました。教えてあげましょう。
挑戦の年、私はヤクルト担当で、1月末からアリゾナ州ユマのキャンプ地に入っていた。東京からの指示で2月半ばロサンゼルスの空港で江夏を出迎える。江夏には広島時代から親しく取材させてもらっていた。
空港ロビーで私の顔を見つけると
「お前、なにしとんのや」
いきなり予想した通りの言葉。久しぶりなのに、なんと不愛想な、でもどこか温かみがある彼の挨拶は今でも耳に残っている。
江夏は数日間、ロスの施設でトレーニングをした後、ブリュワーズのキャンプ地アリゾナ州サンシティに入り、招待選手として大リーグを目指す戦いに突入した。
「わしは日本の反逆児や」
江夏は日本球界と縁を切ってきたことを強調した。
キャンプが進むにつれ、日本からのマスコミも増えていったが、当初から入っていた記者以外の取材はほとんど受けなかった。
幸い私は当初グループだったため、日々の記事に困ることはなかったが、知り合いの他社の記者が取材拒否を受けるシーンを何度も目撃して胸を痛めた。
ある日の練習中、ランニングを終えて芝生に倒れこんだ江夏が近づいた日本のカメラマンに詰め寄るシーンがあった。この時ばかりはあわてて仲裁に入って何とか収まったものの、報道陣との緊張関係はしばらく続いた。
江夏に穏やかな表情が戻ってきたのは2月終盤になってからだ。体作りが進み、紅白試合で好成績を残すようになって、マスコミとの関係も良化していった。
この先は次回に掲載します。(了)