「100年の道のり」(82)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎毎日新聞参画の10球団案が崩壊

 三原脩率いる巨人がペナントを奪回した1949年(昭和24年)9月下旬、大きなニュースが球界を揺るがした。

 「毎日新聞がプロ野球へ」

 連盟に加盟申請が出されたのである。しかも監督に毎日新聞の運動部長だった湯浅禎夫が就任とまで明らかにした。準備万端と思わせるものだった。

 2か月後の11月、選手16人を発表した。その中に、当時のナンバーワン左腕として全国に名を知られた別府・星野組のエース荒巻淳、のちに名監督となる西本幸雄らがいた。水面下でチーム編成の動きをしていたことが分かる。

 この一件は読売新聞の正力松太郎が画策した。

 「1リーグ10球団」

 これが正力の考えだった。戦前、ベーブ・ルースらを呼び、ゆくゆくは大リーグにならって1リーグ6球団の2リーグ制度を唱えており、1リーグ10球団はそのステップだった。

 毎日新聞の参画は大きな反響を生んだ。次々と加盟を申請する企業が出てきた。近畿日本鉄道、西日本鉄道、大洋漁業、西日本新聞などである。その後、日本国有鉄道や広島市民球団が名乗りを上げた。

 瞬く間に1リーグ10球団構想は破壊した。プロ野球を創設した読売新聞も思うようにいかない事態になった。一気に2リーグ制度に移行するのは止められなかった。

 前年1リーグ8球団だったのが15球団に膨れ上がった。巨人を中心としたセントラル・リーグが8球団、新興毎日を含めたパシフィック・リーグは7球団という構図となった。

 ▽セ・リーグ=読売ジャイアンツ(巨人)、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、松竹ロビンス、大洋ホエールズ、国鉄スワローズ、広島カープ、西日本パイレーツ

 ▽パ・リーグ=毎日オリオンズ、東急フライヤーズ、大映スターズ、南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄パールス、西鉄クリッパーズ

 各球団のスタッフは頭を抱えた。試合日程を組むのに大変な労力を費やした。前年の倍近くのチームとなったのだから球場の手配、遠征など。戦後の混乱が落ち着き、人気スポーツになりつつあったプロ野球への関心は一層高まった。

 表向きは整然と2リーグになったように見えるけれども、実際は波乱万丈の末のスタートであり、様々な動きが潜んでいた。“激動の時代”といえた。(続)

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