「ONの尽瘁(じんすい)」(17)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
就任3年目の1986(昭和61)年シーズン前。巨人監督の王貞治が掲げた投手陣再編の核は、槙原寛己、桑田真澄、水野雄仁(かつひと)の「高卒ドラ1トリオ」の台頭にあった。
新加入の桑田には即戦力の資質が問われるシーズンだったし、槙原と水野にとっては前年85年の負傷からの再起が、かかっていた。左股関節骨折の槙原は既に「次」のエースとしての実績を積み重ねつつあっただけに、故障が癒(い)えさえすれば勝ち星の計算は立つ。問題は、1軍経験が浅いうえに、しかも投球に直接影響する右肩を痛め、患部を手術していた水野の復帰の方だった。
「水野雄仁」。こう呼ぶより「阿波の金太郎」と言ったほうが、「あ~、あの選手か!」と、なじみのある方も多いのでは。徳島・池田高時代に甲子園で春夏連覇。天衣無縫の性格と何事にも物怖じしない発言。今でいう「愛されキャラ」のオーラを発しながら全国の女子高生から人気を集めた。83年ドラフト1位で巨人入団。デビュー年となった翌年、早くも1軍登板は果たしたが、7試合(10回⅔)に投げただけで初勝利は遠く、そのほとんどが2軍暮らしだった。
王は、そんな水野に期待を寄せた。どちらかといえばおとなしく優等生タイプが多かった自軍選手にあって、やんちゃな言動、けれんみのない気風の良い投球に、チームの雰囲気をガラッと変えてくれそうな個性を感じた。何の実績もなかった水野を、85年グアムキャンプの1軍メンバーに大抜てきしたのだ。
ところが、ここで、誤算が生じる。
グアムの宿舎到着直後、若手は先輩のスーツケースを部屋まで運ぶことになっていた。仲間と談笑しながら、水野はスーツケースを勢いよく、持ち上げようとした。次の瞬間、まさか!の事態が…。キャスター(車輪)が階段に引っかかったまま、スーツケースはピクリとも動かない。右肩に強い負荷がかかり、味わったことのない痛みが走った。
水野はこのアクシデントを、後日こう振り返っている。
「ケガの翌日、キャッチボールをしようとしたら、肩が痛くて上がらなかった。その2、3日前までは自主トレでバンバン投げていた。明日開幕、でも大丈夫なくらいだった」
帰国後の診断は「ルーズショルダー(肩関節不安定症)」。肩関節が緩くなって不安定で外れやすい症状。肩の可動域が限定され、キャッチボールができない状態が続いた。水野は、国内での治療で早期復帰は難しいと判断。当時ロッテの村田兆治投手の右ヒジ手術を行った米スポーツ医学の権威、フランク・ジョーブ博士の執刀を求め渡米した。術後は懸命にリハビリに取組み、夏ごろにはキャッチボールが可能に。投球練習が可能になったのは、その年の暮れだった。
余談ながら、その負傷がプロ・アマの壁を越えて球界に与えた衝撃は大きかった。バッグや荷物は後輩に持たせず、自分の利き腕ではない方で担ぐのが常識となった。今の高校球児はリュック型のバッグを背負って肩に負担がかからないよう細心の注意を払っている。
巨人という人気球団としての「副産物」も、水野の成長に水を差した。未成年飲酒や常習化した寮の門限破り。練習サボタージュからの鉄拳制裁。女性芸能人との交際…。当時発行部数を伸ばした写真週刊誌に狙われ、水野はその「好餌(こうじ)」となった。
「巨人軍は紳士たれ」の球団モットーは、奔放なその生き方からすればかなり窮屈なものだったかもしれない。半面、プロ生命を左右しかねないケガに屈しなかったのは、その天性の明るさによるものだったともいえる。
指揮官の期待に応え、水野は86年、プロ初勝利を含む8勝6敗1S、防御率3.59と自己最高の成績で復帰を飾った。
王は同年シーズンを総括して、こんな談話を残している。
「投げるほうは計算通り。むしろ良かった。水野もああいう故障をしましたし、マキ(槙原)も故障があった。桑田も(1軍は)オールスター以降と考えていたが、だいぶ良くなったということで投げさせた。確かに、3人とも良かったですね」
故障の癒えた槙原は9勝(防2.29)をマーク。桑田は2勝止まりも初勝利は完投で飾るなど翌年へのステップアップを感じさせた。「高卒ドラ1トリオ」はまずまず堅調な成長をみせた。その傍ら、別の要因がまたぞろ頭をもたげていた。指揮官の投手陣再建への悩みは、「浜の真砂」よろしく、絶えることはなかったのである。(続)