「ONの尽瘁(じんすい)」(18)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
今から34年前の1990年6月29日。恐らく今年、全米中で一番狂気、歓喜の乱舞した、そのスタジアムにわたしはいた。
ロサンゼルスのドジャースタジアム。先頃行われたMLBの頂上決戦、ワールドシリーズで大谷翔平、山本由伸ら日本人選手が所属するドジャースがヤンキースとの43年ぶりの東西名門対決を制したその球場で、ナショナル・リーグのドジャース対カージナルスを、ホットドッグをほおばりながら観戦していた。近鉄に在籍した野茂英雄が海を渡り「天使たちの街」に来る、まだ5年も前のことだ。
90(平成2)年当時、わたしは日刊スポーツでプロ野球の遊軍記者だった。既に87(昭和62)年「初優勝」を遂げた王巨人の番記者を離れ、プロ球界全体に取材のウイングを伸ばしていた。米出張も、日本球界へ影響を及ぼしかねないニュースを取材するためだった。
日本の飲料水メーカー大手S社が、米国でマイナー球団の経営に乗り出した。同社はホワイトソックス傘下の2Aバーミングハム・バロンズと提携を結び、日本人スタッフを共同経営者に据えるなど複数の人員を現地に派遣していた。当時の大企業には一般的に本業とは別の「メセナ活動」(文化・芸術事業)に協賛することで、企業イメージを高める傾向があった。同社の場合、その1つがスポーツ事業の拡充であり、とりわけ球団経営だった。
かねて同社にはプロ球団買収の噂が絶えず、野球発祥の地で得るノウハウを将来的な球界再編に向けた買収や経営に生かす狙いでは?その本気度を探る必要があった。
ドジャースタジアムには南部アラバマ州での取材を終えた後、立ち寄った。物見遊山のつもりだったが、ドジャーブルーのユニホームを見ていると、なぜか巨人監督時の王貞治の采配が思い起こされた。
巨人はドジャースと歴史的に深いつながりをもつ。ベロビーチキャンプに61年から81年まで5度にわたって参加し、ドジャースが築き上げた戦術書「ドジャース戦法」をいち早く導入。「V9」の原動力とした。最後のベロビーチキャンプとなった81年は王の助監督1年目。指導者として川上哲治、長嶋茂雄、藤田元司ら歴代監督と同様に、この「指導者のバイブル」と呼ばれる戦法にどう倣(なら)おうとしたのか?
ドジャースの戦法は、貧打のチームでも守備力を最大限に生かして守り勝つことを説く。攻撃面でもバントやエンドラン、盗塁などの「スモールベースボール」が原則だ。81年当時、監督・藤田、助監督・王とともに「トロイカ体制」を担った、ヘッドコーチ牧野茂のエピソードを聞いたことがある。牧野はキャンプで連日ミーティングを行い、選手に戦法の浸透を図った。投手陣には、こんな「問題」が出された。
「巨人1点リードで9回1死一、二塁のピンチ。次の打者に、どう対処するか?」
「連続三振を狙う」と答えたAは「不正解」。「シュートでゲッツーを狙う」と答えたBが「正解」だった。堅実な守備によって一度に2つのアウトを狙う「効率の良さ」を徹底させようとした。
王が目指したのも、投手力を中心とした守りのチームだった。86年ごろにパターン化された中継ぎ陣による「一人一殺」はその典型といえた。この継投では最後の守護神につなぐまで、2人以上の中継ぎが必要になる。重要な試合終盤の局面を3人の救援陣で乗り切るこの勝利の方程式を、王は「三段締めだ!!」と叫んでいた。
球場が、ざわついている。ふと、試合に目を転じるととんでもないことが起きていた。ドジャースのフェルナンド・バレンズエラが、ノーヒットノーランを達成した。振りかぶると右足を高く上げ、顔を天に向ける独特のフォームで一世を風靡(び)した。今秋ドジャースの話題が「大谷一色」に染まるなか、わが追憶の左腕は10月22日、63歳の若さで旅立ってしまった…。
バレンズエラがノーヒッターとなった夜。もう1人アメリカン・リーグでもノーヒットノーランを達成した投手がいた。同じ日にア・ナ両リーグでノーヒットノーランが同時達成されたのは、MLB史上初の出来事だった。男にはその4年前の86年、王巨人と深いかかわりがあった。名を、デーブ・スチュワートといった。(続)