「100年の道のり」(85)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎永田雅一が大映スターズを立ち上げたのは、自分が社長を務める大映映画のPRのためだった。プロ野球の本格経営に乗り出す考えはなかった。オーナーでありながら「野球は素人」と公言してすましていた。
そんな永田のところへ読売新聞の正力松太郎が訪ねてきた。1949年(昭和24年)の夏のことだった。東京・京橋にある大映本社で正力を迎えた永田は、想像もしなかったことを頼まれた。
「私はプロ野球の発展のために考えがある。大リーグのように2大リーグにするのが理想だ。それにはまず10球団とし、それから2チーム増やして12球団として2つのリーグにする。私は今、自由に動けない身だ。そこであなたに頼みたい」
このとき正力はGHQによって公職追放になっていた。そのためプロ野球のために動くことはできなかった。永田に白羽の矢を立てたのは永田の行動力にかけたのだろう。義理人情の世界に生きる永田は、大正力といわれた人物から頼まれたのだから断るわけにはいかない。
10球団構想の新球団2とは、一つが毎日新聞、もう一つが九州の西日本新聞だった。永田は理屈で分かっていてもプロ野球界は一筋縄でいくほど甘くはなかった。この戦後間もないころは寝業師が大勢いた。
2球団増加の話が表面化すると、近鉄や西鉄、国鉄の鉄道会社、大洋漁業などが名乗りを上げた。こうなると1リーグ10球団は不可能で、むしろ一気に2リーグができそうな雰囲気になった。映画界では実力者の永田もこうなると見ているほかはなかった。
それどころか正力構想に読売が待ったをかけたのである。毎日参加に反対の立場をとった。理由は「プロ野球で読売は成功したのに、なんで同じ新聞社を入れるんだ」というものだった。既存の8球団で賛否をはかったところ、賛成は阪神、阪急、南海、大映、東急の5球団に対し、反対は読売、中日、大陽の3球団。
永田はこの結果を見て、正力と読売の間には溝があるな、と初めて気が付いた。正力からの依頼を裏切るわけにはいかないから悩むことになった。あの“永田ラッパ”は静まり状態に陥った。
プロ野球参画を目指す企業が増えると、今度はチームの戦力を整えるため、引き抜きが頻繁に起きることになった。既存の球団間で「引き抜きはご法度」と約束したものの、そんなことを無視して暗躍する輩が飛び回った。(続)