「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(14)-(佐塚 元章=NHK)

◎センバツから30有余年、奇跡の出逢い
2025年に入ってすぐ、うれしいサプライズがあった。1990(平成2)年、センバツ高校野球で優勝した広島・広陵高の主力打者、篠原正道君と(あえてクンと言わせてください)35年ぶりに再会したことである。場所は私のマンションの前にある多摩川狛江河川敷グランド。彼の息子2人が少年野球「狛江ボーイズ」に所属しているため、練習の手伝いに来ていたのだ。私が広島に8年も赴任していたことを知っていた監督が「もしや知り合いでは」と2人を引き合わせてくれた。
私は広島局勤務時代、広陵高の試合を甲子園で実況し、決勝戦の後は祝賀特別番組のため急ぎ広島に戻った。広陵高講堂に凱旋するナインを迎え、夜のゴールデンタイムで「祝優勝 おめでとう広陵高校」として2時間の生放送をした。司会の私は、ユニフォーム姿で丸刈りの篠原君に何度もインタビューした。広島ローカル放送とはいえ視聴率は40パーセントを超えた。忘れられない楽しい思い出である。
篠原君はその後、早大、パナソニックで活躍し、今は東京勤務。土日は奥さんも一緒に多摩川グランドにやってくる。話ははずんで、広陵高OB会関東支部の新年会に招待された。ほとんどのOBが私のことを覚えていてくれたが、肝心の篠原君は全く記憶にないそうだった。それもそのはず、当時の高校球児からは単なる40歳のオジサンアナウンサーとしか見えなかったのだろう(笑)。
気ままな国内旅行を楽しんでいる私は24年6月、北海道道南地方を旅し函館に入った時、知内(しりうち)高のことを思い出した。1989(平成元)年にセンバツの開幕試合を放送したことがあったのだ。町立高として甲子園出場は未だ知内高しかない。当日朝、地元紙を見て、全国高校野球北海道大会函館支部予選2回戦に知内高が登場することを知った。さっそく名物路面電車に乗ってオーシャン球場に入った。36年ぶりに見る知内高は白のユニフォーム、はつらつとしたプレーはセンバツの頃と変わっていなかった。名門函館中部高に快勝した。
応援団の中にお邪魔すると、私と同年配ぐらいの男性が「甲子園で放送してくれた佐塚アナウンサーですよね」と声を掛けてきた。これには驚いた。この方は奥山彰さん。野球部後援会長として知内町の活性化のために奔走していた人だ。甲子園出場は地域をどれだけ勇気づけたかがよくわかる。知内高は、名将山本鉄弥監督が亡くなったあと新体制のもとで二度目の甲子園出場を目指している。津軽海峡沿いの町の象徴である野球部は、過疎化が進む中、夢よもう一度の熱い想いを持ち続ける。
2つの奇跡ともいえる出逢いの感動を紹介させてもらったが、これはアナウンサーという職業ならではの「縁」だろうか? ありがたいことである。(了)