「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(15)-(佐塚 元章=NHK)

◎あの衝撃のセンバツから30年
「春はセンバツから」という言葉は大好きである。野球ファンにとって退屈なシーズンオフが終わり「球春到来」を告げる。選抜高校野球は2025年3月、97回大会を迎えた。
私は1977(昭和52)年の49回大会から99年の71回大会まで甲子園から実況させてもらった。白熱した試合に何度も感動しアナウンスした。が、74歳、OBとなった今、テレビで観戦する心境は、勝ち負けなど関心がなく、高校生が元気に一生懸命プレーしている姿を楽しんでいる。それはなぜか?
辛かったあの阪神淡路大震災の年の67回選抜の経験を思い出すからである。
95年1月17日午前5時46分、私は名古屋局勤務、社宅でそれまで体験したことのない強烈な揺れを感じた。すぐに家族を起こした後、一目散に出局した。震源地がわからず、NHK総合テレビは午前6時から1時間、東京、名古屋、大阪局のリレー中継でしのいでいた。名古屋からは私が管内の状況を伝えた。午前7時を過ぎて、阪神高速道倒壊の映像が流れ、被害は神戸方面であることが明らかになり、私の役目は終わった。局内は、もう関西への支援体制づくりでごった返していた。
実はそんな時でも、私は、今年のセンバツは大丈夫だろうかと思った。1月下旬、こっそり現場を見ておきたいと思い、神戸市東灘区から国道2号線を東に向かい、甲子園まで10キロを歩き惨状を自分の眼で確かめた。球場の周辺は液状化現象がひどかった。
芦屋市に住んでいたミスタータイガース村山実さんが「こんなに近所で人が死んでいるのにセンバツどころじゃないよ」の発言は大きな反響を呼んだ。
しかし、日本高野連事務局長の田名部和裕さんは震災翌日から、開催に向けて各方面の意見を聞きまわった。被災者はもちろん、地元自治会、警察、兵庫県…。ついに主催新聞社と日本高野連は2月17日開催を決定した。選考委員会で神港学園、育英、報徳学園の地元3校が選ばれた。
私は実況アナウンサーとして甲子園に出張した。地元勢の活躍にアルプススタンドに歓声が戻ってきた時は本当にうれしかった。
優勝した観音寺中央高の橋口純監督(故人)がインタビューで「おめでとうございす」と向けられると「とてもそんな気持ちにはなれません。こんな時、野球をさせてもらっていいのか、申し訳ない気持ちで戦っていました」と答えた。
この言葉で大会が救われたと思った。
その後、村山さんも、大学後輩でもある田名部さんに「田名部には俺の発言で迷惑をかけたなあ」と謝ったそうである。
阪神淡路大震災から30年、その後も東日本大震災、コロナ禍など大きな苦難と戦いながら歩んできたセンバツ、いつまでも英知を結集し継続して欲しいものである。(了)