「たそがれ野球ノート」(29)-(小林 秀一=共同通信)

◎五木寛之さんが示すもの
新聞、放送の編集作業で欠かせないのが予定稿という存在だ。予測できる結果をあらかじめ書き置いておく記事のことで、いざ結果が出たらすぐに記事が手放せる。ニュースの重要な要素の一つ、速報性を存分に生かすシステムだ。
縁起でもない話だが、死去した時のために用意してある記事のことを「亡者原稿」と呼ぶ。とてもご本人には明かせないが、マスコミ各社は各界知名人の死亡記事は念入りにそろえている。万が一の時には本記、サイド記事がたちまちニュース速報として表に出ていくわけだ。
想定できる勃発ものについては、政治、経済、国際とあらゆるジャンルで予定稿は存在するが、こと勝ち負けに関わることが多いスポーツはより細かい設定となる。
大一番の対決を迎えるとする。Aが勝った場合、Bが勝った場合の記事が用意され、おまけに引き分けだった場合まで揃えられている。
私が所属した通信社の場合、より速報性が求められることから、丹念につくりこんだものだ。
しかしである。前もって書き終えている記事はたとえ正確でスピードはあっても、文章に血が通っていない。予定稿に頼る編集作業に疑問を覚えたのは、記者生活を終えてからだというのも情けない話だが。
先日、作家・五木寛之氏の講演を聞く機会があり、納得できるお話をうかがった。
93歳とは思えないお元気な五木さんは今でも夕刊紙にコラムを書き続けている。相当な行数で、いつも大変な作業だろうなと感心しつつ、空いている時間を使ってまとめ書きしているのではないかと想像していた。
ところが、1万2千回以上も続くコラムを「一度もストックをためたことはないんです」と明かし、「外出していても、提稿の前夜は必ず帰宅後に書きます」
五木さんの記事に対する姿勢は、ネットの攻勢に押される旧態然としたオールドメディアに示唆を与えているように思えた。(了)