「100年の道のり」(94)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎日本シリーズ最初の勝利投手は42歳
 1950年(昭和25年)にセ・パ2リーグ制になったプロ野球は、この年からセとパの優勝チームで日本一を争う7回戦制を導入した。現在の日本シリーズである。初年度は「日本ワールドシリーズ」と銘打ち、セの松竹ロビンスとパの毎日オリオンズが対戦した。試合は神宮から始まり、後楽園、甲子園、西宮、中日、大阪と各球場を巡回して行われた。
 第1戦は球史に残るエピソードを生んだ。毎日は先発に42歳9か月を前にした若林忠志を起用したからである。このシーズンの若林は登板14試合で73イニングを投げ4勝3敗だった。驚きの起用は「大バクチ」と言われた。当然だった。エースの荒巻淳は26勝(新人王)を挙げ、続いて野村武史18勝、榎原好16勝と投手陣はそろっていた。
 若林はハワイ・オアフ島生まれの日系二世。来日して横浜の本牧中に編入し、法大、コロムビアを経て阪神入り。2リーグと同時に新興の毎日に移籍した。“七色の変化球”の異名を持ち、通算20勝6回、MVP2回と球界NO1の制球力抜群のサイドスローだった。
相手の松竹は“水爆打線”と呼ばれた強打線が看板だった。主軸のホームラン打者が並んでいた。小鶴誠51本、岩本義行39本、大岡虎雄34本。下馬評は「松竹有利」だった。リーグ優勝が決まるころに若林が「(シリーズ)第1戦はボクが行く」と湯浅禎夫監督に直訴したという。緊張の第1戦をこの超ベテランに監督は任せた。
 若林は強打者より1番を打ち74盗塁でタイトルを取った金山次郎の対策を何日も考えた。「金山を出すと走られると勢いづく」ことに備え「彼は積極的に打ってくる。だから初球は外角に外すボールを投げた」。金山を三塁ゴロに打ち取り1回裏を三者凡退。これでペースに乗った。
試合は松竹の大島信雄との投手戦になった。毎日が2回表に先制の1点。8回裏に追いつかれ、1-1で延長へ。12回に毎日が2点。その裏を1点に抑え3-2で毎日が逃げ切った。若林は161球を投げ完投したのだった。大島も153球で最後まで投げ切った。
 若林は松竹のクリーンアップトリオと計15打席対し、安打は大岡の1本、四球は小鶴の2つ。本塁打を許さなかった。若林は「本塁打を打たれない投手」という顔もあった。通算3557回3分の1を投げ被本塁打はわずか69本。0.175回に1本という記録である。これも第1戦先発の大役となった理由だった。
 毎日は4勝2敗で初の日本一となった。のち毎日はロッテに、松竹はDeNAへと歴史を刻んでいる。(了)