「ONの尽瘁(じんすい)」(28)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
何者かによる多摩川グラウンドへの「ゴミ投棄事件」で幕を開けた1987(昭62)年は、巨人監督の王貞治が「鬼」と化したシーズンでもあった。3年間リーグ優勝から遠ざかる要因を「選手との希薄なコミュニケーションにあった」として、選手との接触促進は言うに及ばず、技術指導もコーチ任せではなくみずからためらわず行うなど、選手管理術の180度転換を目指そうとした。同時に、指揮官自身が「変わる」ことを掲げる以上、選手にも厳しい生活態度が求められた。
冒頭の事件に見舞われた1月25日。王は多摩川キャンプ初日の訓示で、当日の最低気温1度という厳寒ぶりを引き合いに出して、選手を現実と向き合わせた。「今日はいつになく厳しい寒さだが、世間のわれわれに対する目に似ている。勝たねばならない!私に身柄を預けてほしい!みんな、一体となってやろう!」と語気を強めた。
さらに「常に、緊張を保つために守ってほしいことがある」と言葉を続けると、選手の表情はいっそう引き締まった。「キャンプ中、練習が始まったら終わるまで、たばこを吸う人はやめてほしい」。王政権初の「禁煙指令」だった。
今の世でこそ健康志向からプロ選手の喫煙者も少なくなったが、当時練習の合間の一服、二服は選手にはこの上ない気分転換の時間に違いなかった。非喫煙者だった王にしても、選手の嗜好まで管理するのは本意ではなかったはず。
「それでも…」と、王は言った。「人間、何か一つ、我慢するものがないとね」。ストイックな練習で「世界の王」のステータスを確立したみずからの現役時代に立ち返って、我慢や辛抱を、勝利への執念に結びつけようとしたのである。
王の管理術は、それだけではない。選手の頭髪スタイル、ファッションまでチェックする方針が打ち出された。ヘアスタイルで極端に短くもみあげ部分をカットしたり、独特なデザインカット、パーマは禁止された。遠征の際、派手な色調の上着やダボダボのズボンの着用もNG。遠征の車中、マンガの持ち込みも御法度となった。
王は些事に及ぶ管理の狙いを力説する。選手に対して「何をすべきか常に考え、厳しさをもってプレーすること。最後の勝利を信じて戦うこと」を求める一方で、自身に対して「誰に何と批判されてもいい。激しさをもって言うべきことは言う。全選手を満足させる方法なんてない!」と、不退転の覚悟を選手起用の戦術にも容赦なく用いることを表明した。
第1次長嶋政権、第1次藤田政権、さらに王政権と3代に及ぶ指揮官のもとでプレーした、ある巨人OBがそれぞれの監督の差異について興味深い指摘をしたことがあり、紹介したい。それは「各監督が遠征先の食事をどう取るか?」という違いに言及したものだった。そのOB氏によると、長嶋は自室で、藤田と王は宿舎食堂で選手と一緒も、藤田は選手の間に入って談笑しながら、王はコーチ陣と同じテーブルで食べていた、という。
私にはこの「食事風景」がそれぞれの指揮官の個性を示しているようで、興味深い。王は何より「監督と選手は同じフィールドにいるべきではない」というのが持論で、それまでの3年間は技術指導にせよ、コミュニケーションにせよ、各コーチを介して実施していた。
シーズン前の「禁煙令」を初めとする訓示は厳しさを前面に掲げながら、一方でみずからの厳格なイメージを緩和させ、選手の側まで降りようとする苦心ではないかと、私は見ていた。
宮崎キャンプの一コマを覚えている。朝、球場への出発前。王は宿舎フロアにある喫茶室にふらりと姿を見せた。自室から移動のバスに向かうのがルーティンだったから、珍しい行動だった。喫茶室では番記者数人がテレビゲームに興じていた。
「おっ、やってるな!」。王は記者たちの間に割って入り、何とゲームのレバーを握り始めた。画面の「敵」から攻撃されると「やりやがったな!」と荒っぽい言葉で「応戦」。負けん気はゲームでも健在?だった。初めて見る指揮官のそんな無邪気な姿に、記者同士思わず顔を見合わせた。たかがゲームと侮るなかれ。私には、常勝巨人の伝統を守り、優勝を宿願するためみずから変わろうとした王の背水の覚悟に映った。(続)
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お久しぶりです。毎回、読んでますよ。王さんもお元気でなによりです。続編、楽しみにしています。
石井さん
玉置です。コメント、ありがとうございます。
先輩の目に届いていることは、励みになりますが、同時にすごくプレッシャー!?でもあります。
王さん、文化勲章受賞よかったですよね。